前漢・後漢の流れをくむ劉備が、関羽・張飛と桃園の誓いを結び、天才軍師・諸葛亮の「天下三分の計」を基に益州に建国した。義を重んじ、多くの名将が漢室復興のために戦い抜いた。
蜀漢(221年〜263年)は漢の血統を受け継ぐ劉備が、益州(現在の四川省)を拠点に建国した国家です。正式な国号は「漢」ですが、前漢・後漢と区別するため「蜀漢」と呼ばれます。
三国志演義では主人公格として描かれる蜀漢の物語は、劉備・関羽・張飛の「桃園の誓い」に始まり、天才軍師・諸葛亮との「三顧の礼」、赤壁の勝利、荊州・益州の獲得と、ドラマチックな展開が続きます。
しかし、荊州を関羽が失い、夷陵の戦いで呉に大敗した劉備が白帝城で没すると、蜀漢は次第に追い詰められていきます。諸葛亮が5度の北伐を試みるも悲願は叶わず、263年に魏の侵攻で滅亡しました。
黄巾の乱で挙兵後、各地を転々とする流浪の日々。関羽・張飛と義兄弟の契りを結び、趙雲が合流。諸葛亮との「三顧の礼」で天下三分の計を授かる。
赤壁の戦いで曹操を退け、荊州の南部を確保。さらに劉璋を破って益州を獲得し、蜀の基盤を固める。
定軍山の戦いで漢中を奪取し、劉備は漢中王を名乗る。しかし関羽が荊州で孫権軍に敗れ処刑される大事件が発生。
劉備が帝位に就き蜀漢を建国。関羽の仇討ちで呉に侵攻するも、夷陵で陸遜に完敗。白帝城で諸葛亮に後事を託して崩御。
「出師の表」を上奏し、5度にわたる北伐を敢行。街亭の敗北、泣いて馬謖を斬る逸話。最期は五丈原に陣没し、漢室復興の夢は潰える。
魏の鄧艾と鍾会が侵攻。姜維が剣閣で防衛するも、鄧艾が陰平道を迂回して成都に迫り、劉禅が降伏。蜀漢は42年で滅亡。
城門を開き放ち琴を弾いて司馬懿を退けた「空城の計」は演義の有名場面ですが、正史にはこの記述はありません。32の軍略をまとめた『三十六計』の一つとして定着していますが、諸葛亮の逸話としては創作です。
第一次北伐の街亭の敗北で、諸葛亮が愛弟子の馬謖を涙ながらに処刑した話は有名ですが、正史では馬謖は逃亡して獄死したという記録もあり、「泣いて斬った」のかは諸説あります。
劉備の息子・劉禅(幼名:阿斗)は暗愚の代名詞とされますが、実際には蜀漢を40年間存続させており、全くの無能ではなかったと再評価する研究者もいます。諸葛亮の死後も姜維の北伐を支持し続けました。