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サンスクリット語で「傷つけないこと」を意味する倫理原則。ジャイナ教・ヒンドゥー教・仏教に共通する根本的な価値観で、いかなる生き物も傷つけてはならないとする不殺生の思想。ジャイナ教が最も厳格に実践し(空気中の微生物も殺さぬよう口布を着用)、仏教では五戒の筆頭として位置づけられる。現代における最も著名な実践者はマハトマ・ガンジーで、彼はアヒンサーを政治的手段として昇華させ「非暴力・不服従」運動でイギリス植民地支配と戦った。マーティン・ルーサー・キング牧師もガンジーの影響を受け公民権運動に応用した。
古代インドにおける宗教文書群の総称であり、ヒンドゥー教の最も古く権威ある根本聖典。「知識」を意味する。「リグ・ヴェーダ」「サーマ・ヴェーダ」「ヤジュル・ヴェーダ」「アタルヴァ・ヴェーダ」の4つ(四ヴェーダ)から成り立ち、神々への讃歌や祭祀の儀礼規則、呪術歌が記されている。紀元前1500年頃から紀元前500年頃にかけて編纂され、バラモン教の形成と初期インド哲学(ウパニシャッドなど)の確固たる基盤となった。
古代インドのヴェーダ時代に起源を持つ世襲的身分制度。バラモン(司祭)・クシャトリア(武士・王族)・ヴァイシャ(商人・農民)・シュードラ(隷属民)の四ヴァルナに加え、その外側に置かれた「不可触民(ダリット)」が最も深刻な差別を受けた。職業・結婚・居住・食事などあらゆる生活が出生によって決定される閉鎖的な階層構造は、宗教的「穢れ」の概念によって正当化された。イギリス植民地時代に「カースト(caste)」という用語が定着。1950年のインド憲法で差別は禁止されたが、農村部を中心に根強く残る。アンベードカルはダリット出身として廃絶運動を指導した。
ローマ教皇を最高指導者とするキリスト教最大の教派。「普遍的」を意味するギリシャ語「カトリコス」に由来する。ペトロの後継者とされる教皇と司教団の不可謬性を重んじ、七つの秘跡(サクラメント)による神の恩寵を説く。中世ヨーロッパ社会を精神的・政治的に支配し、大航海時代以降は世界中に布教活動を展開した。現在も全世界に13億人以上の信徒を擁する巨大な世界的組織である。
サンスクリット語で「行為」を意味する宗教・哲学概念。ヒンドゥー教・仏教・ジャイナ教に共通する根幹思想で、現在の行いが将来の結果を決定するという因果律を指す。善行は良い結果を、悪行は悪い結果をもたらし、その積み重ねが輪廻転生における次の生の状態を決定するとされる。仏教ではカルマが輪廻の原動力となり、煩悩を滅することで輪廻の連鎖(サンサーラ)から解放(涅槃)されると説く。現代では「カルマ」という言葉が「因果応報」の意味で広く世界中に普及している。
紀元1〜5世紀頃、現在のパキスタン北西部のガンダーラ地方で栄えた仏教美術様式。アレクサンドロス大王の東征以降に広まったギリシア・ローマ(ヘレニズム)の写実的な彫刻技法と、インド発祥の仏教の主題が融合して生まれた。それまで仏足石や法輪などの象徴で示されていた釈迦を、初めて人間の姿をした像(仏像)として表現したことで知られる。波打つ衣文や彫りの深い顔立ちが特徴で、クシャーナ朝の保護のもとで発展し、中央アジアを経て中国・朝鮮・日本の仏像表現にも影響を与えた。
イスラム教の根本教典。アラビア語で「読まれるもの」を意味する。預言者ムハンマドがメッカ郊外のヒラー山で天使ジブリール(ガブリエル)を通して受けたアッラー(唯一神)の啓示を、後代(第3代カリフのウスマーンの時代)に編纂しまとめたもの。114の章(スーラ)から成り、ムスリムの信仰、道徳、儀礼、法規範(シャリーア)の絶対的な源泉である。アラビア語原典のみが真のクルアーンとされ、翻訳されたものは「解釈」と位置づけられる。
イスラム教の第二の教派であり、世界のムスリムの約10〜15%を占める。「シーア・アリー」(アリーの党派)に由来する。第4代正統カリフのアリーおよびその子孫のみを、預言者ムハンマドの正統な後継者(イマーム)と認める。イマームはアッラーから特別な知識を保護されていると考え、イマームへの絶対的な忠誠を誓う。イランでは国教化されており、イラクやレバノンでも多数派を占める。スンナ派とは歴史的・教義的のみならず政治的な対立も深い。
紀元前6世紀頃、ヴァルダマーナ(マハーヴィーラ)が開いたインド発祥の宗教。仏教と同時代に生まれ、バラモン教の権威とカースト制度に疑問を呈した。不殺生(アヒンサー)を最高原則とし、空気中の微生物も傷つけないよう口布を着けるなど極端なまでの非暴力を実践する。苦行による業の消滅と霊魂の解脱(モークシャ)を目指す。インドの商人コミュニティに信者が多く、タタ財閥など現代インド財界にも影響力を持つ。信者数は約600万人で少数派だが、アヒンサーの思想はガンジーら近現代のインド思想家に大きな影響を与えた。
イスラム教の最大教派であり、世界のムスリムの約85〜90%を占める。「スンナ」とは「慣行」を意味し、預言者ムハンマドの言行(スンナ)を記したハディースと、伝統的な共同体の合意(イジュマー)を重んじる。第4代正統カリフのアリー暗殺後、ムアーウィヤによるウマイヤ朝の成立を容認し、カリフの地位を実体的な支配者・保護者として承認した。厳密な血統主義をとるシーア派と歴史的に対立してきた。
ユダヤ教口伝律法の体系的集成で、2〜5世紀にかけてパレスチナとバビロニア(現イラク)のラビ学院で編纂された。3世紀頃にラビ・イェフダー・ハナシーが口伝律法をまとめた『ミシュナ』と、それに対する後代ラビの議論・解釈『ゲマラ』から構成される。500年頃完成の『バビロニア・タルムード』と400年頃完成の『エルサレム・タルムード』の二系統があり、前者の方が権威ある正典として扱われる。律法解釈・倫理・逸話・法廷判例を網羅し、ディアスポラのユダヤ人共同体を結束させる精神的支柱となった。
ギリシア語で「離散・散らばり」を意味する語で、もともとパレスチナを離れて世界各地に居住するユダヤ人共同体を指す。紀元前6世紀のバビロン捕囚を嚆矢とし、紀元70年のローマによるエルサレム神殿破壊と135年のバル・コクバの乱鎮圧を契機に大規模化した。地中海世界、のちには東欧・西欧・イスラーム世界・アメリカ大陸へと広がり、各地で独自のユダヤ文化(アシュケナジム、セファルディムなど)を発展させた。20世紀後半以降は、広くアフリカ系・中国系など故郷を離れて生活する民族集団一般にも適用される概念となった。
ユダヤ教最重要の聖典で、『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』の5書から成る。ヘブライ語で「教え・律法」を意味し、伝統的にはモーセが神の口述によって筆記したとされる。世界の創造、族長アブラハム・イサク・ヤコブの物語、エジプト脱出、シナイ契約、荒野の40年、モーセの死までを記し、613の戒律(ミツヴァー)を含む。キリスト教旧約聖書の冒頭にも収録されイスラーム教ではタウラートとして啓典の一つとされる。羊皮紙の巻物として会堂(シナゴーグ)に安置され、安息日の朗読で儀礼の中心を成す。
紀元前597年および前586年に新バビロニア王国のネブカドネザル2世がユダ王国を征服し、エルサレム神殿を破壊してユダヤ人支配層・祭司・職人らをバビロンへ強制連行した事件。紀元前538年にバビロニアを滅ぼしたアケメネス朝ペルシアのキュロス2世が帰還を許可するまで約50年続いた。この期間にユダヤ人は神殿を失ったまま信仰共同体を維持するための会堂(シナゴーグ)制度を発達させ、トーラーの編纂が進んだと考えられ、後のユダヤ教とディアスポラ共同体の原型が形成された転換点となった。
インドを中心に約12億人が信仰する世界最古級の宗教の一つ。特定の開祖を持たず、ヴェーダ聖典を基礎にブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァなど多数の神々を崇拝する多神教。輪廻転生・カルマ(業)・ダルマ(法・義務)・モークシャ(解脱)が根本概念。カースト制度と深く結びついており、各自のヴァルナに応じた義務(ダルマ)の遂行が来世の向上につながるとされた。マハーバーラタ・ラーマーヤナの二大叙事詩はヒンドゥー文化の根幹をなし、バガヴァッド・ギーターはガンジーら近現代人にも多大な影響を与えた。
16世紀の宗教改革によって西方教会(カトリック教会)から分離したキリスト教諸教派の総称。「抗議する者」を意味する。マルティン・ルターやジャン・カルヴァンの教えに基づき、教皇の権威を否定して「聖書のみ」「信仰のみ」「万人祭司」を根本的教理とする。ルター派、改革派、英国国教会、メソジスト、バプテストなど多様な教派が存在し、主に北西ヨーロッパや北アメリカに広まり、近代の個人主義や資本主義の発展にも精神的影響を与えたとされる。
マヤ文明が開発した複数の暦法の総称。主に①ツォルキン(260日の祭祀暦、20の日名×13の数字の組み合わせ)、②ハアブ(365日の太陽暦、18か月×20日+5日の不吉な日)、③長期暦(紀元前3114年を起点とする長大な連続暦)の三つが組み合わされた。ツォルキンとハアブが一致する周期は52年で、この周期に合わせて建物の改築や宗教儀礼が行われた。マヤ人が独自に発見した「ゼロ」の概念は、この精密な暦法の基礎となった。長期暦の一周期が2012年12月21日に終わることが「世界の終末」として話題になったが、マヤ研究者には根拠のない誤解とされている。
後漢末期の184年、道教系宗教結社「太平道」の指導者・張角が組織した武装反乱軍。信徒たちが黄色の頭巾を目印として着けたことからこの名で呼ばれ、反乱は干支にちなみ「黄巾の乱」として知られる。太平道は符水(まじないの水)による治病などを通じて華北一帯の困窮した農民の間に広まり、「蒼天已に死す、黄天当に立つべし」のスローガンのもと、腐敗した宦官政治や重税に苦しむ民衆を糾合して一斉に蜂起した。張角は同年中に病死し、反乱の主力は皇甫嵩・朱儁らの官軍により鎮圧されたが、残党の活動はその後も各地で続いた。鎮圧の過程で地方に軍権が委譲されたことで曹操・孫堅・董卓ら各地の軍閥が台頭し、後漢王朝の統制は事実上崩壊、三国時代への分裂の遠因となった。
古代中国の戦術の一つで、火を用いて敵軍や敵陣を攻撃する方法。三国志では特に2つの決定的な戦いで用いられた。赤壁の戦い(208年)では周瑜が曹操の船団に火攻めを行い大勝、夷陵の戦い(222年)では陸遜が劉備の陣営を火攻めで壊滅させた。孫子の兵法にも「火攻篇」として体系的に記述されている。
君主を置かず、国家元首を含む統治者が世襲によらずに選出される政治体制。語源はラテン語の res publica(公共のもの)にさかのぼる。典型例とされる古代ローマ共和政(前509年頃〜前27年)では、任期1年の執政官(コンスル)、元老院、民会が権力を分有し、一人の支配者への権力集中を防ぐ仕組みがとられた。中世末期から近世にかけてはヴェネツィアやフィレンツェなどイタリアの都市共和国、スペインから独立したネーデルラント連邦共和国が実例となり、マキァヴェッリらの著作を通じて公共の利益と市民の徳を重んじる共和主義の思想が受け継がれた。アメリカ独立(1776年)とフランス革命(1792年の第一共和政成立)を経て共和制は近代国家の主要な政体となり、19世紀のラテンアメリカ諸国の独立、清朝に代わる中華民国の成立(1912年)、第一次世界大戦後のドイツ・オーストリアなど帝政の崩壊を通じて各地に広がった。主権在民・法の支配・権力分立を基本原則とすることが多いが、共和制であることは必ずしも民主的であることを意味せず、選挙による政権交代を欠く国家が共和国を称する例もある。逆にイギリスや日本のように君主を戴きながら民主的な立憲体制をとる立憲君主制の国もあり、共和制と民主主義は区別される概念である。
日本最古の歴史書にして神話の原典。712年に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上したとされる。天地開闢から神々の誕生(イザナギ・イザナミ)、天照大神の天岩戸隠れ、ヤマタノオロチ退治、そして神武天皇の東征から推古天皇に至るまでの日本の成り立ちを、神話と伝承、歌謡を交えて記述している。神道の世界観や天皇家の正統性を紐解く上で不可欠な第一級の史料である。
目上の人が格下の者のもとへ三度も足を運び、礼を尽くして仕事を任せることのたとえ。後漢末期の207年頃、劉備が隆中(現在の湖北省襄陽付近)に隠棲していた諸葛亮(孔明)を軍師に迎えるため、その草庵を三度も訪れて協力を請うたという故事に由来する。この会見で諸葛亮が示したとされる天下三分の計は、以後の劉備の戦略の基礎となった。優れた人材を熱意をもって迎え入れることの重要さを説く言葉として、現在でも人材登用の場面で広く用いられる。
魏(曹操→曹丕)・蜀漢(劉備)・呉(孫権)の三国が中国を分割統治した状態を指す歴史用語。208年の赤壁の戦いを契機に成立し、280年の呉の滅亡まで約70年間続いた。鼎(かなえ)の三本足になぞらえ、三つの勢力が均衡を保つ構図を「鼎立」と表現する。
ヘブライ語聖書『出エジプト記』および『申命記』に記される、神ヤハウェがシナイ山でモーセに授けたとされる10項目の戒律。「他の神々を拝むな」「偶像を作るな」「神の名をみだりに唱えるな」「安息日を守れ」「父母を敬え」「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「隣人について偽証するな」「隣人の財産を欲するな」の10条から成る。ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教に共通する倫理的基盤であり、西洋法思想・刑法の原型とも位置づけられる、人類史上最も影響力のある宗教倫理規範の一つ。
ヘブライ語聖書『出エジプト記』が伝える、モーセに率いられたヘブライ人がエジプトの奴隷状態を脱出しカナン(約束の地)へと旅立った一大事件。紀元前13世紀頃の出来事と伝承される。10の災いがエジプトを襲い、海が二つに分かれて民が渡り、シナイ山で神との契約(十戒)を結ぶという物語は、解放と民族形成の原型として後世の革命思想・公民権運動(アメリカ黒人霊歌の「Let My People Go」など)にも深い影響を及ぼした。ユダヤ教の過越祭(ペサハ)はこの脱出を毎年記念する最重要の祝祭である。
中国の歴史区分の一つで、紀元前770年から紀元前403年(または紀元前453年)頃までの時代。西周の滅亡後、周王朝の権威が衰え、各地の諸侯が勢力を競った。斉の桓公、晋の文公などの「春秋の五覇」が覇権を争った。名称は孔子が編纂したとされる歴史書『春秋』に由来する。後半は戦国時代へと移行する。
中国の春秋戦国時代(紀元前770年〜紀元前221年)に活躍した多数の思想家・学派の総称。主な学派として、儒家(孔子・孟子)、道家(老子・荘子)、法家(韓非子・商鞅)、墨家(墨子)、兵家(孫子)、名家、陰陽家などがある。戦乱の中で多様な思想が百花繚乱のごとく咲き競い、中国思想の基盤を形成した。
初期仏教の教えとパーリ語経典を厳格に保持する仏教の宗派。「長老たちの教え」を意味する。個々人の修行による自身の解脱(阿羅漢となること)を主眼とするため、大乗仏教側からは「小乗」と蔑称された歴史があるが、現在は用いられない。スリランカ、ミャンマー、タイ、カンボジアなど主に南伝ルートで伝播したため南伝仏教とも呼ばれ、出家者(僧伽)と在家の厳格な区別と、戒律の徹底を特徴とする。
日本固有の民族宗教。特定の開祖や教典を持たず、自然・祖先・土地などに宿る八百万(やおよろず)の神々を祀る多神教的な信仰を特徴とする。神社を中心に祭祀が営まれ、清浄を重んじる禊(みそぎ)や祓(はらえ)といった儀礼が発達した。古代には仏教の伝来とともに神仏習合が進み、神と仏を一体的にとらえる信仰が長く続いたが、明治期の神仏分離令により神道と仏教は制度的に区別された。近代には国家神道として国家体制と結びついた時期もあったが、第二次世界大戦後は信教の自由のもとで一宗教として位置づけられている。
仏教・ヒンドゥー教・ジャイナ教に共通する宇宙の中心にそびえる聖なる山。高さは仏教宇宙論では16万由旬(ゆじゅん)とされ、その頂上に忉利天(三十三天)が広がり帝釈天が統治する。山の四面にはそれぞれ異なる宝石が輝き、山の中腹には四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)の住む天宮がある。須弥山を囲むように七つの山と七つの海が同心円状に広がり、その外側に四大陸(南に人間が住む「南贍部洲/なんせんぶしゅう」)が配置されるとされる。この宇宙観はアジア各地の仏教寺院建築に反映され、ヒンドゥー寺院の高塔(シカラ)や、カンボジアのアンコール・ワットも須弥山を象徴するとされる。日本の寺院に置かれる「須弥壇(しゅみだん)」も同じ概念に由来する。
キリスト教およびユダヤ教の正典。ユダヤ教の正典である「旧約聖書」(ヘブライ語聖書)と、イエス・キリストの生涯や教え、使徒たちの書簡などを記した「新約聖書」から構成される。世界で最も多く翻訳され、発行されている書物であり、西洋の歴史、文化、芸術、法律、倫理的価値観の根幹を形成し続けている絶対的な権威を持つテキストである。
大乗仏教の一派であり、座禅(瞑想)による精神の集中と直観によって悟りを開くことを目指す。サンスクリット語の「ディヤーナ」(静慮)の音写である。インドの達磨が中国に伝えたとされ、中国で老荘思想などと結びついて独自の発展を遂げた。日本には鎌倉時代に栄西(臨済宗)や道元(曹洞宗)らによってもたらされ、武士階級の精神的支柱となったほか、茶道、水墨画、枯山水などの日本文化・芸術の根底に深い影響を与えた。「Zen」として世界でも知られる。
紀元前後にインドで興起した仏教の大きな宗派。「大きな乗り物」を意味し、自己の悟り(解脱)のみではなく、一切の衆生(すべての生きとし生けるもの)の救済を重視する。菩薩信仰が特徴的であり、般若経や法華経などの大乗経典が成立した。後に中国、朝鮮半島、日本、チベットなど主に北伝ルートで伝播して東アジアの文化や思想の中核となり、多様な教理や宗派(禅、浄土教、密教など)を生み出した。
諸葛亮が劉備に対して説いたとされる戦略。曹操が支配する華北、孫権が支配する江東に対抗するため、劉備が荊州と益州を確保して天下を三分し、孫権と結んで曹操に対抗し、最終的に漢室を復興するという壮大な構想。隆中対(りゅうちゅうたい)とも呼ばれる。
古代、アラビア半島南部(現在のイエメン・オマーン)や「アフリカの角」で採れる乳香・没薬などの香料を、地中海世界へと運んだ交易とその隊商路。乳香・没薬は神殿の祭祀や薫香、医薬、化粧などに珍重され、古代エジプト・メソポタミア・ギリシア・ローマで莫大な需要があった。この交易はサバアやヒムヤルなど南アラビア諸王国、および中継地を押さえたナバテア王国(ペトラ)に富をもたらした。ローマの博物学者プリニウスもその繁栄を記録している。やがて海路の発達やキリスト教普及に伴う薫香需要の変化により、陸路の隊商交易は衰退していった。
紀元前5世紀頃、インドの王子ガウタマ・シッダールタ(釈迦)が菩提樹の下で悟りを開いたことに始まる世界三大宗教の一つ。「四諦(苦・集・滅・道)」と「八正道」を実践の核とし、生の苦しみから解放された「涅槃」の境地を目指す。カースト制度を否定する平等主義と非暴力(アヒンサー)を説いた点が当時のインドで画期的だった。アショーカ王の保護で東南アジア・中央アジアへ、さらに中国・朝鮮を経て6世紀に日本へ伝わり、各地の文化・芸術・哲学に深甚な影響を与えた。大乗仏教・上座部仏教・密教など多様な潮流を持つ。
蜀漢から魏に対して行われた北方への軍事遠征の総称。諸葛亮が5回(228〜234年)、その後を継いだ姜維が複数回にわたり実施した。諸葛亮は「出師の表」で漢室復興の大義を掲げたものの、いずれも決定的な成果を上げられず、五丈原での病没をもって中断された。
人民が主権を持ち、直接または代表者を通じて政治に参加する政治原理・制度。語は古代ギリシャ語の「デーモクラティア(demos=人民、kratos=支配)」に由来する。前5世紀のアテナイでは、成年男性市民が民会に直接参加して立法や外交を決め、多くの公職を抽選で選び、陪審員に日当を支給する仕組みが整えられた。ただし参加資格は成年男性市民に限られ、女性・在留外国人・奴隷は除外されていた。ローマは元老院と民会を組み合わせた共和政をとり、中世ヨーロッパでは身分制議会や都市自治が発達したが、いずれも近代の民主主義とは前提を異にする。近代民主主義は、ホッブズ・ロック・ルソーらの社会契約論と啓蒙思想を理論的基礎とし、1688年の名誉革命と権利章典、アメリカ独立革命、フランス革命を経て制度化された。モンテスキューが説いた権力分立、法の支配、成文憲法による統治権の制限(立憲主義)と結びついている点が特徴である。実際の運用形態としては、有権者が代表を選ぶ間接民主制(代議制)が中心で、国民投票や住民投票が直接民主制的な補完として用いられる。執政制度では議院内閣制と大統領制が代表的な類型となる。選挙権の範囲は当初、財産や納税額による制限選挙にとどまり、19世紀から20世紀にかけて男性普通選挙、次いで女性参政権へと拡大した。女性の国政参政権は1893年のニュージーランドが最初期の例で、日本では1945年に認められた。20世紀には多数決が少数者の権利を侵しうるという「多数の専制」の問題や、大衆の支持を背景に権威主義へ転じる事例が議論され、司法審査・人権保障・報道の自由・複数政党制などが不可欠の条件として重視されるようになった。
敵の内部に不和・対立を生じさせて連携を崩壊させる謀略。三国志では、潼関の戦い(211年)で曹操が馬超と韓遂の連合軍に対して用い、両者の間に猜疑心を植え付けて連合を瓦解させた逸話が代表的。また周瑜が赤壁の戦いの前に蔣幹を利用して曹操に偽情報を掴ませた「反間の計」も有名。
刑罰法典である「律」と、行政組織や租税・土地制度などを定めた「令」を柱とする中央集権的な統治体制。中国では隋・唐の時代に整備され、東アジアの周辺諸国にも受容された。日本では7世紀後半、白村江の敗戦(663年)を経て国家体制の整備が急がれるなかで段階的に導入が進み、689年の飛鳥浄御原令、701年の大宝律令によって体系が整い、718年に編まれた養老律令が757年に施行された。中央には祭祀を担う神祇官と一般行政を統括する太政官が置かれ、太政官のもとに中務・式部・治部・民部・兵部・刑部・大蔵・宮内の八省が属した(二官八省)。地方は国・郡・里に区分され、中央から派遣された国司と、在地の豪族から任じられた郡司が統治にあたった。人民は6年ごとに作成される戸籍に登録され、班田収授法により口分田を支給されるかわりに、租・庸・調の負担と雑徭・兵役を課された。8世紀に入ると口分田の不足や農民の逃亡が広がり、743年の墾田永年私財法によって開墾地の私有が認められると、有力貴族や寺社による荘園の形成が進んだ。平安時代には令に規定のない令外官(蔵人所・検非違使など)が実務を担うようになり、10世紀以降は個々の農民ではなく有力農民が請け負う名田を単位に徴税する方式へ移行して、当初の制度は実態を失っていった。もっとも律令の法典そのものは形式的には長く効力を保ち、官職の名称や朝廷の儀礼は近代に至るまで受け継がれた。
仏教の根本的な世界観で、生きとし生けるものが業(カルマ)に従って六つの世界を生まれ変わり続けるという思想。六道は①地獄道(最大の苦しみの世界)、②餓鬼道(飢えと渇きに苦しむ世界)、③畜生道(本能のままに生きる動物の世界)、④修羅道(争い続ける阿修羅の世界)、⑤人間道(喜びと苦しみが混在する現世)、⑥天道(福徳を積んだ者が生まれる天上界)の六つからなる。忉利天はこの天道の中でも特に人間と縁の深い世界とされる。仏教では、この輪廻のサイクルから解脱することが修行の最終目標とされ、悟りを開いた者は輪廻を超えた「涅槃(ねはん)」の境地に至るとされる。日本では平安時代に「六道絵(ろくどうえ)」として視覚化され、庶民の死生観・倫理観に深く影響を与えた。京都・六道珍皇寺は冥界への入口とされる「六道の辻」として知られる。
仏教における究極の目標とされる境地。サンスクリット語「ニルヴァーナ(nirvāṇa)」の音訳で「炎が吹き消された状態」を意味する。欲望・怒り・無知(三毒)という煩悩の炎が完全に消滅し、苦しみと輪廻転生から解放された状態を指す。釈迦はブッダガヤで悟りを開き(正覚)、クシナガラで80歳にして涅槃に入った(大般涅槃)。日本では「お涅槃様」として2月15日に釈迦の入滅を祀る行事が行われる。現代ではロックバンド名にもなるなど、精神的解放や至高の境地を表す言葉として世界に定着している。
仏教宇宙観における三界(欲界・色界・無色界)のうち、欲界の第二天。須弥山(しゅみせん)の頂上に位置し、帝釈天(インドラ)を主神として三十三の天宮が広がるとされる。「忉利(とうり)」はサンスクリット語「Trāyastriṃśa」の音写で「三十三」を意味し、中央の帝釈天宮を囲むように四方に八つずつ計三十二の天宮が配置されることから「三十三天」とも呼ばれる。仏教では、人間界の上に位置する天上界の中でも人間との縁が深い世界とされ、釈迦が亡き母・摩耶夫人に説法するために忉利天に昇ったという伝説が有名。この説法の場面は仏教彫刻・絵画の重要なテーマとなっている。日本では奈良・東大寺の法華堂(三月堂)に安置される日光菩薩・月光菩薩立像が忉利天の文脈で語られる。
アステカ文明において人間を生贄として神々に捧げる宗教儀礼。アステカの宇宙観では「太陽は人間の血と心臓によってのみ動き続けられる」とされ、生贄は宇宙の維持に不可欠な宗教的義務とみなされた。戦争捕虜・奴隷などが主な対象で、テンプロ・マヨール(大神殿)の頂上で心臓を取り出す儀礼が行われた。この慣習はスペイン人征服者がアステカ征服を「野蛮な文明の解放」として正当化する口実にも使われた。ただし現代の歴史学では、当時の多くの文明が異なる形の宗教的暴力を持っており、アステカを一方的に「残酷」と断罪することへの批判もある。スペインによる征服後は禁止されキリスト教への強制改宗が進んだ。
インカ帝国を中心にアンデス地域で用いられた、結び目によって情報を記録・伝達する道具。主軸の紐から多数の紐を垂らし、結び目の位置・数・種類や紐の色で、人口・収穫量・貢納・暦などの数量情報を十進法で記録したとされる。文字を持たなかったインカ社会では、専門の記録官「キープカマヨック」がキープを管理し、広大な帝国の行政を支えた。数量だけでなく物語や系譜などの記録も含んだ可能性が議論されている。
9世紀末から10世紀初頭にかけて、第一次ブルガリア帝国で成立したスラヴ語を表記するための文字体系。ビザンツ帝国の宣教師キュリロス(キリル)とメトディオス兄弟が考案したグラゴル文字による布教活動を受けて、その弟子たちがギリシャ文字を基礎に整備したと考えられており、名称は兄キュリロスにちなむ。プレスラフ文学学校を中心に教会スラヴ語の文献に用いられ、正教の広まりとともにセルビアやキエフ・ルーシ(現在のロシア・ウクライナ・ベラルーシ)へ伝わった。現在もブルガリア・ロシア・ウクライナ・セルビア・モンゴルなど広い地域で使われ、2007年のブルガリアのEU加盟により、ラテン文字・ギリシャ文字と並ぶEUの公式文字の一つとなった。
中世以降のヨーロッパ都市に設けられたユダヤ人強制居住区。語源は1516年にヴェネツィア共和国が鋳造所(ゲット)跡地にユダヤ人を囲い込んだ地区名に由来するとされる。門限・外出制限・職業差別を伴い、宗教迫害の象徴として近世ヨーロッパ各都市で拡大した。19世紀の市民革命・ユダヤ人解放で一旦消滅したが、第二次世界大戦期にナチス・ドイツがポーランドを中心に1,000以上のゲットーを再導入し、ユダヤ人を閉じ込めて飢餓・疫病・絶滅収容所送致で数百万人を殺害した。1943年4月のワルシャワ・ゲットー蜂起はユダヤ人抵抗運動の象徴として知られる。現代の英語では、経済的・社会的に疎外された都市居住区を広く指す語としても用いられる。
アユタヤ朝期のタイ(シャム)で発達した、身分秩序を数値で表す社会制度。国王を頂点に、王族・貴族・官僚・平民・奴隷にいたるまで、各人の地位に応じて「サクディナー」と呼ばれる数値(名目上の保有田地の面積で表される位階)が割り当てられた。15世紀のボーロマトライローカナート(トライローク)王の改革で体系化されたとされ、この数値が官職・特権・義務・刑罰の軽重などを定める基準となり、身分制社会と賦役制度を支えた。19世紀末からのラーマ5世(チュラロンコーン)による近代化改革のなかで実質的な機能を失っていった。
アステカ人がテスココ湖の浅い湖底に開発した独特の農業技術。湖底に杭を打ち、水草・泥・土を積み上げて細長い人工農地を作り、水路で仕切って管理した。「浮き畑」とも呼ばれるが実際は湖底に固定されている。肥沃な湖底の泥と豊富な水を利用して年に複数回の収穫が可能で、トウモロコシ・トマト・トウガラシ・カカオなどを栽培した。テノチティトランの急増する人口を養うために不可欠な農業システムで、最盛期には数万ヘクタールのチナンパが整備されたと推定される。現在もメキシコシティ近郊のソチミルコにチナンパが残存し、UNESCO世界遺産の一部として保護されている。
13世紀頃からベトナムで用いられた、ベトナム語を表記するための文字体系。漢字を基礎とし、その音や意味を借用・組み合わせて、漢字では表せない固有のベトナム語を書き記すために作られた。陳朝期以降に詩文などで発展し、特に18〜19世紀には『金雲翹(キム・ヴァン・キエウ)』をはじめとする文学作品に用いられた。読み書きには漢字の素養が前提とされ習得が難しかったため一般には広く普及せず、20世紀初頭にローマ字表記の国語(クオック・グー)が広まると衰退した。
12〜17世紀に北ヨーロッパで栄えた、北ドイツの諸都市を中心とする商業・都市同盟。リューベックを盟主とし、バルト海と北海を結ぶ交易を広く支配した。ロンドン・ブリュージュ・ベルゲン・ノヴゴロドなどの主要港に在外商館(コントール)を置き、木材・穀物・毛皮・干魚・塩・毛織物などを扱った。最盛期には100を超える都市が参加し、共通の権益を守るため独自の艦隊を持って戦うこともあった。しかし領邦国家の伸長や、オランダ・イングランド商人との競争により近世に入って衰退し、17世紀にはほぼ実体を失った。
1215年6月15日、イングランド王ジョンがテムズ川沿いのラニーミードで反乱諸侯(バロン)の要求を受け入れ、大印璽を押して承認したラテン語の文書。全63か条からなる。フランスにおける大陸領の喪失と、たび重なる軍事費の徴収に対する諸侯の不満が背景にあり、教会の自由、慣習に反する封建的負担の禁止、ロンドンなど都市の特権の確認などが定められた。なかでも第39条は、自由人は同輩による合法的な裁判または国法によらなければ逮捕・監禁・財産の剥奪・追放をされないと規定している。ただし当時「自由人」に数えられたのは住民の一部であり、内容の中心は封建貴族の既得権の確認にあった。ジョン王の要請を受けた教皇インノケンティウス3世は同年のうちにこれを無効と宣言し、第一次バロン戦争が起きたが、ジョンの死後の1216年・1217年・1225年に改訂版が繰り返し発布され、1297年にはエドワード1世のもとで法令として確認された。17世紀にエドワード・クック(コーク)らが国王大権を制限する根拠として援用したことから、「国王も法の下にある」という法の支配の象徴とみなされるようになり、権利請願や権利章典など後の立憲主義の展開に影響を与えた。1215年当時の写しは4部が現存し、うち2部を大英図書館が、残る2部をリンカン大聖堂とソールズベリ大聖堂が所蔵している。
中世〜近世の日本で、農民・武士・宗教信者などが団結して領主・幕府に抵抗した集団的行動。鎌倉末〜室町時代の「土一揆」(農民が徳政令を求め蜂起)、戦国期の「一向一揆」(浄土真宗信者が自治的国家を形成・織田信長が10年かけて鎮圧)が代表的。江戸時代には年貢の引き下げなどを求める百姓一揆が多発した。「一揆」は本来「一つの目的のために結束する」を意味し、単純な「暴動」ではなく交渉力を持つ社会運動としての側面も持っていた。
天皇が退位して上皇・法皇となった後も「院」として実権を握り続けた政治形態。1086年に白河上皇が開始し、鳥羽・後白河上皇へと続いた。摂関家を排して天皇家による権力回収を意図したが、上皇が各地の荘園から収入を得て私的な「北面の武士」を組織するなど武士の台頭も促した。保元の乱(1156年)では後白河天皇と崇徳上皇が対立して武士を動員し、平清盛・源義朝らが活躍する武家の時代への転換点となった。
中国で隋代(6世紀末)に始まり、清末の1905年に廃止されるまで長く続いた官吏登用試験制度。家柄や推薦を重んじた九品中正法にかわり、儒教の古典を中心とした試験の成績で官僚を選ぶ点に特徴がある。隋の文帝が推薦に試験を組み合わせる方式を導入し、煬帝の時代に文才を問う進士科が置かれたとされる。唐代には経典の知識を問う明経科と、詩文や政策論を課す進士科が中心となり、宋代には皇帝みずからが最終試験を行う殿試が加わって、合格者は「天子の門生」と位置づけられた。宋代には答案の氏名を隠す糊名(こめい)や、筆跡で判別できないよう書き写す謄録(とうろく)など、不正を防ぐ仕組みも整えられた。明・清では郷試・会試・殿試の三段階が定着し、答案は八股文と呼ばれる厳格な形式で書くことが求められた。受験資格は原則として広い階層に開かれていたが、長い学習期間を支える経済力が必要だったため、合格者は地主・士大夫層に偏り、受験できるのは男性に限られた。科挙は儒教的教養を共有する官僚層を生み出して中央集権的な統治を支え、高麗(958年)やベトナムの李朝(1075年)にも導入されたが、日本では平安時代に類似の制度が根づかなかった。清末には、試験の内容が現実の統治や近代的な学問から離れているという批判が強まり、1905年に廃止されて近代的な学校制度による人材養成へ切り替えられた。
室町幕府3代将軍・足利義満が明(中国)との間に始めた国家貿易(1404〜1547年)。「勘合符」という照合札を用いて日本からの朝貢船と倭寇(海賊)を区別した。日本は銅・硫黄・刀剣を輸出し、銅銭・生糸・陶磁器・書籍を輸入した。幕府は莫大な利益を独占し、義満が金閣寺を建てた北山文化の財政的基盤となった。大内氏と細川氏が貿易権をめぐって対立し「寧波の乱」(1523年)を起こすなど、利権をめぐる政治問題も生じた。
鎌倉幕府が確立した武家社会の主従関係の原理。将軍(頼朝)は御家人に「御恩」として所領の安堵(既存領地の保証)・新恩給与(新たな土地の付与)を与え、御家人は「奉公」として京都大番役・鎌倉番役などの軍事的奉仕を行った。この双務的契約関係が鎌倉幕府の統治基盤となった。しかし元寇(1274・1281年)の後、十分な「恩賞」を与えられなかった幕府への御家人の不満が高まり、鎌倉幕府崩壊の遠因となった。
中国・明代初期に羅貫中が著した長編歴史小説。後漢末から三国時代の興亡を描く。陳寿の正史『三国志』を基にしつつ大幅な脚色を加え、諸葛亮の天才軍師像や劉備・関羽・張飛の義兄弟の絆を強調した。中国四大名著の一つで、東アジアの大衆文化に計り知れない影響を与えた。日本でも「三国志」として広く親しまれている。
11〜13世紀にローマ教皇の呼びかけでヨーロッパのキリスト教徒がイスラム勢力からエルサレム奪回を目指して行った遠征。1095年のクレルモン公会議でウルバヌス2世が提唱し、第1回(1096〜1099年)がエルサレムを占領。計8回が公式に組織されたが最終的に失敗した。十字軍を通じてアラビア数学・医学・哲学がヨーロッパに流入し、ルネサンスへの知的刺激となった。一方、ユダヤ人虐殺・コンスタンティノープル略奪など暗黒の側面も持ち、今日もイスラム世界との摩擦の歴史的文脈を形成している。
平安時代中期(9〜11世紀)に藤原氏が天皇の外戚となり、幼少の天皇には「摂政」、成人後は「関白」として実権を握った政治形態。藤原道長が四人の娘を天皇・皇太子の后にして「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠んだ1019年頃が最盛期。しかし後三条天皇が外戚を持たない天皇として即位し藤原氏の権力を抑制、その子白河天皇が院政を始めたことで摂関政治は実質的に終焉した。
日本の古代から中世にかけて存在した私的な土地支配の体系。8世紀、墾田永年私財法(743年)によって開墾地の私有が認められると、貴族や大寺社が周辺の農民を動員して大規模な開墾を行い、初期荘園(自墾地系荘園)が各地に生まれた。10世紀以降、律令制的な土地・人民支配がゆるむと、開発領主となった有力者が中央の権門(摂関家・院・大寺社)に土地を寄進し、みずからは現地の管理者(荘官・下司)となって権益を確保する寄進地系荘園が広がった。こうして一つの土地の上に、本家・領家・荘官・作人といった重層的な得分権(職=しき)が積み重なる構造が成立した。荘園は租税を免除される不輸、国司の使者の立ち入りを拒む不入の特権を得て公権力から自立していったが、朝廷はこれを抑えようとして荘園整理令を繰り返し発し、とくに後三条天皇による1069年の延久の荘園整理令では記録荘園券契所を設けて証拠文書の審査が行われた。院政期には権門への寄進がさらに進み、全国の土地は荘園と国衙領(公領)が並び立つ荘園公領制として編成された。1185年に源頼朝が守護・地頭の設置を認められると、地頭が年貢の徴収と現地支配に食い込み、荘園領主との間で地頭請や下地中分といった取り決めが結ばれるようになる。南北朝の動乱を経て守護が半済などを通じて荘園の年貢を掌握し、戦国期には現地の武士による支配が実態となって荘園領主の権益は失われた。豊臣秀吉の太閤検地によって一つの土地に一人の耕作者を定める一地一作人の原則が打ち出され、重層的な職の体系は最終的に解体した。
複数の国家が、それぞれ独自の政府・法・議会などの制度を保ったまま、同一の君主をいただく形で結合した状態。国家そのものが一つに融合する合邦(実質的合同)とは区別され、各国の主権や統治機構は形式上維持される。君主の相続や王家どうしの結婚、あるいは貴族による君主の選出をきっかけに成立することが多く、逆に相続の断絶や王位継承法の違いによって解消されることもある。歴史上の例としては、1102年以降のクロアチアとハンガリー、1386年に始まるポーランドとリトアニア(1569年のルブリン合同で実質的な合同に移行)、1397年のカルマル同盟によるデンマーク・ノルウェー・スウェーデン、1603年にスコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世を兼ねて生じた両王国の結合(1707年の合同法で単一の王国となる)、1814年から1905年まで続いたスウェーデンとノルウェーの連合などがある。近世ヨーロッパではハプスブルク家のように、婚姻と相続を通じて多くの王国・領邦を同君連合の形で束ねる支配が広くみられ、各領域の身分制議会や特権が存続したことは、のちの地域ごとの自立志向や民族運動の土台にもなった。
10世紀の独立以降、ベトナム(大越)の政治的中心であった紅河デルタから南方へと領域を拡大していった長期的な歴史過程を指す概念。チャンパ王国の征服やカンボジア(クメール)勢力の後退を背景に、ベトナム人は中部沿岸からメコンデルタへと移住・開拓を進めた。1471年の黎聖宗によるチャンパの都ヴィジャヤ攻略や、17〜18世紀の阮氏政権による南部開発が代表的な画期とされる。この過程で現在のベトナムの南北に細長い国土が形成された。
領主の土地に緊縛され、移動や職業選択の自由を制限された農民(農奴)の身分と、それを支えた社会制度。農奴は奴隷とは異なり家族と保有地を持ち、慣習によって保護される面もあったが、領主の直営地での賦役や現物・貨幣の貢納を負い、領主の裁判権と結婚・相続にかかわる各種の負担に服した。西ヨーロッパでは中世の荘園制のもとで広がり、11〜13世紀に一般的な農民のあり方となったが、貨幣経済の浸透で賦役が地代に置き換わり、14世紀半ばの黒死病による人口激減が労働力の希少化をもたらしたことで衰退し、15〜16世紀には多くの地域で実質的に消滅した。これに対しエルベ川以東の中・東欧では、西欧向けの穀物輸出に応じて領主直営の大農場経営(グーツヘルシャフト)が拡大し、16世紀以降にかえって農民の隷属が強められた。この対照的な現象は「再版農奴制(グーツヘルシャフト体制)」と呼ばれる。ロシアでは16世紀末以降に農民の移動の自由が段階的に奪われ、1649年の会議法典(ソボールノエ・ウロジェーニエ)が逃亡農民を捜索する期限を撤廃したことで農奴制が法的に確定し、18世紀には領主の権限がいっそう強化された。廃止は地域によって時期が大きく異なり、ハプスブルク領ではヨーゼフ2世が1781年に人身隷属を廃したのち1848年革命で賦役が撤廃され、プロイセンでは1807年の十月勅令に始まる改革が進められ、ロシアでは1861年の解放令、ルーマニアでは1864年の農地改革によって廃止された。もっとも法的な廃止の後も、買戻し金の負担や地主的土地所有が残り、農民の実質的な従属関係は長く続いた。
中世ヨーロッパや日本で発達した、土地を媒介とする主従関係に基づく社会・政治制度。ヨーロッパでは、主君が家臣に封土(フィーフ)を与える代わりに、家臣が臣従の礼を結んで軍事奉仕を誓う双務的な契約関係が核心となり、農民が領主の荘園で働く荘園制と結びついて社会の土台を成した。日本では、将軍と御家人が「御恩と奉公」で結ばれる関係として鎌倉幕府以降に本格化し、武士を担い手とする武家社会を形づくった。いずれも分権的で、地方領主が大きな自立性を持った点に特徴がある。ヨーロッパでは貨幣経済の浸透や絶対王政・中央集権国家の台頭とともに、日本では明治維新と廃藩置県によって解体された。
スペインが中南米植民地で採用した強制労働制度。スペイン王室が征服者・植民者(エンコメンデロ)に一定数の先住民の労働・貢納を「委託」する代わりに、エンコメンデロは先住民をキリスト教に改宗させ保護する義務を負うとされた。実態はほぼ奴隷制度で、先住民は銀鉱山・農園・建設現場で過酷な労働を強いられた。ラス・カサスなどの聖職者が先住民保護を訴えて批判し、1542年の「新インディアス法」で制度は制限されたが完全廃止には至らなかった。先住民の大量死により労働力が不足すると、アフリカからの黒人奴隷貿易が拡大した。中南米の根深い貧富格差・人種的不平等の歴史的根源の一つとされる。
1565年から1815年まで約250年間、スペイン領のマニラ(フィリピン)とアカプルコ(ヌエバ・エスパーニャ=現メキシコ)を結んだ太平洋横断の交易。中国産の絹・陶磁器などのアジア物産が、アメリカ大陸産の銀と交換された。大量のメキシコ銀がアジアに流入し、東アジアの経済に大きな影響を与えた、初期のグローバルな交易ネットワークの一つである。
15〜16世紀以降、ドニエプル川やドン川などの草原地帯(ステップ)に集まった自由民の武装集団。逃亡農民や辺境の住民から成り、自治的な共同体を形成して独自の軍事組織と選挙による指導者(アタマン、ヘーチマン)を持った。ウクライナのザポロージャ・コサックはポーランドやオスマン帝国、クリミア・ハン国と戦い、1648年のフメリニツキーの蜂起ではコサック国家を築いた。ロシアのドン・コサックなどは帝政ロシアの辺境防衛・騎兵戦力として重要な役割を果たした。コサックは独立心と自由の象徴として、ウクライナ・ロシア両国の歴史と文化に深く刻まれている。
15〜17世紀にスペイン王室の許可のもと中南米・北米・フィリピンを征服したスペイン人冒険者・軍人の総称。スペイン語で「征服者」を意味する。代表的人物はアステカ帝国を征服したエルナン・コルテス(1519〜21年)、インカ帝国を征服したフランシスコ・ピサロ(1532〜33年)など。わずか数百人の兵士で数十万の軍事力を持つ帝国を短期間で滅ぼした背景には、①天然痘をはじめとするヨーロッパの疫病に先住民が免疫を持たなかったこと、②火器・馬・鉄の軍事的優位、③現地の反アステカ・反インカ勢力との同盟がある。征服後はエンコミエンダ制による強制労働で先住民を収奪し、大量の金銀をスペインに持ち帰った。
マレー半島やインドネシア諸島などに移り住んだ中国系移民の子孫で、現地の文化と融合した独自の文化を形成した人々を指す。男性をババ、女性をニョニャと呼ぶ。マレー語を基盤に中国語や英語の語彙を取り入れた言語、中華とマレーの要素を融合した料理(ニョニャ料理)や刺繍の施された衣装(クバヤ)などに特徴がある。15世紀以降の海峡交易を背景に形成され、マラッカ・ペナン・シンガポールなどで栄えた。
アンデス地域の輪番制労働制度。もとはインカ帝国において、各共同体が道路建設・軍役・農作業などの公共労働を交替で負担する制度だった。スペイン植民地時代の1570年代、ペルー副王フランシスコ・デ・トレドがこれを再編し、ポトシ銀山やワンカベリカ水銀鉱山へ先住民労働力を強制的に供給する仕組みに転用した。指定地域の村落は成人男性の一定割合を鉱山へ送ることを義務づけられ、坑内の過酷な労働環境や水銀中毒により多くの死者を出し、先住民人口の減少と共同体の疲弊を招いた。1812年のカディス議会で廃止が布告されたが、実態としての強制労働は独立期まで残った。
14世紀のイタリアに始まり、16世紀にかけてヨーロッパ各地に広がった文化・芸術・学問の革新運動。名称はフランス語で「再生」を意味し、時代を指す概念としては19世紀の歴史家ミシュレやブルクハルト(『イタリアにおけるルネサンスの文化』1860年)によって定着した。ペトラルカらの人文主義者(ヒューマニスト)が古代ギリシャ・ローマの写本を収集・校訂して古典を再評価し、神学中心の学問に対して人間そのものを探究する学芸(フマニタス)が重んじられた。1453年のビザンツ帝国滅亡前後にイタリアへ移ったギリシア語学者たちが古典の伝来を後押しし、フィレンツェのメディチ家をはじめとする都市の富裕層や教皇・君主の庇護(パトロネージ)が芸術家の活動を支えた。美術では線遠近法や解剖学的な人体表現が確立され、ブルネレスキ、マサッチョに続いてレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロが活躍し、中心はフィレンツェからローマ・ヴェネツィアへ移った。アルプス以北ではファン・エイクやデューラー、聖書研究に取り組んだエラスムスらによる北方ルネサンスが展開し、15世紀半ばのグーテンベルクによる活版印刷術が思想と古典の普及を加速させた。ルネサンスは宗教改革・大航海時代・科学革命と時期的に重なり、近世ヨーロッパの形成に大きく関わったが、近年の研究では中世との断絶を強調しすぎることへの見直しも進み、カロリング朝や12世紀の古典復興との連続性が指摘されている。
戦国時代に行われた経済改革政策。既存の市場での独占的な座(同業者組合)の特権を廃止し、誰でも自由に商売ができるようにした制度。織田信長が安土城下で大々的に実施したことで有名だが、六角氏など他の大名も先行して実施していた。自由な商業活動を促進し、城下町の経済発展に大きく貢献した。
17〜18世紀のヨーロッパで広まった思想潮流。理性による批判を通じて、迷信や偏見、既存の権威から人間を解放し、社会を改良できると考えた点に特徴がある。ニュートンに代表される自然科学の成果と、経験を知識の源とするロックの哲学が土台となり、人間社会もまた理性によって法則的に理解し改善できるという確信が広がった。イギリスではロックが社会契約と抵抗権の考えを示し、フランスではモンテスキューが『法の精神』(1748年)で権力分立を説き、ヴォルテールが宗教的寛容と言論の自由を訴え、ルソーが『社会契約論』(1762年)で人民主権と一般意志の理念を展開した。ディドロとダランベールが編集した『百科全書』(1751〜1772年)は当時の学問と技術の知識を集大成し、新しい思想を広める役割を果たした。スコットランドではヒュームやアダム・スミスが人間の本性や経済の仕組みを論じ、ドイツではカントが「啓蒙とは何か」(1784年)で、他人の指導によらず自分の理性を用いる勇気を持つことこそ啓蒙だと述べた。これらの思想はサロンやコーヒーハウス、書物や新聞を通じて読書する公衆のあいだに広まり、プロイセンのフリードリヒ2世やオーストリアのヨーゼフ2世のように、上からの改革に啓蒙の理念を取り入れる君主も現れた(啓蒙専制君主)。アメリカ独立宣言(1776年)やフランス人権宣言(1789年)に見られる自然権・国民主権の理念は啓蒙思想の影響を色濃く示しており、近代の憲法や人権思想の源流の一つに位置づけられている。
江戸幕府が17世紀前半(1633〜1641年)に段階的に完成させた対外関係の制限政策。ポルトガル船来航禁止・日本人の海外渡航禁止・貿易窓口を長崎の出島(オランダ)・長崎唐人屋敷(中国)・対馬(朝鮮)・薩摩(琉球)・松前(アイヌ)の五口に限定した。キリスト教の布教禁止と貿易独占が主目的。「鎖国」という言葉自体は後世の造語で、幕府は「四つの口」で外交・貿易を継続しており完全な孤立ではなかった。1853年のペリー来航と翌年の日米和親条約で終焉した。
国家権力を立法(議会)・行政(政府)・司法(裁判所)の三機関に分散させ、互いを牽制・均衡(チェックアンドバランス)させる統治原理。フランスの思想家モンテスキューが著書「法の精神」(1748年)で体系化した。権力集中が専制政治を生むという歴史への反省から生まれ、アメリカ合衆国憲法(1787年)が世界で最初に制度化。日本国憲法も第41・65・76条で三権分立を定めている。現代民主主義国家の統治の基本原理として世界中に普及した。
江戸幕府の財政悪化と社会問題に対処するために行われた三度の大規模幕政改革の総称。①享保の改革(8代将軍・徳川吉宗、1716〜1745年):倹約令・新田開発・目安箱設置・公事方御定書制定。②寛政の改革(老中・松平定信、1787〜1793年):棄捐令(旗本の借金帳消し)・囲米・異学の禁(朱子学以外を禁じる)。③天保の改革(老中・水野忠邦、1841〜1843年):株仲間解散・人返し令・上知令(江戸近郊の土地没収)。いずれも短期間で行き詰まり、後の幕府衰退につながった。
江戸幕府が大名統制のために制度化した政策。大名は1年おきに江戸と領地を往復し、妻子は常に江戸に住まわせることが義務付けられた。1635年に武家諸法度で正式に制度化。大名の財政を消耗させて反乱の余力を奪う効果があった一方、街道や宿場の発展、文化の交流を促進する側面もあった。明治維新まで約230年間続いた。
江戸時代の身分制度。武士(士)・農民(農)・職人(工)・商人(商)の四階層が基本とされた。武士は統治者として最上位に置かれ、農民は年貢を納める生産者として尊重され(「農本主義」)、商人は「利を貪る」として最下位とされた。実際には農民が幕府財政を支え、商人が経済を実質支配するなど建前と実態は乖離していた。さらに士農工商の外に置かれた「穢多・非人」という被差別身分も存在した。明治の四民平等令(1869〜1871年)により公式には廃止された。
生産手段の私的所有・市場における自由な売買・利潤追求を基本原理とする経済体制。16〜17世紀の重商主義を経て、産業革命期に本格的に確立した。アダム・スミスの「国富論」(1776年)が理論的基礎を提供。資本の集積・技術革新・自由競争が経済成長を促す一方、貧富の格差・労働者の搾取・恐慌などの矛盾も生み出し、社会主義思想や労働運動を生む原動力となった。20世紀末の冷戦終結後、グローバル資本主義が世界に拡大した。
人々が自然状態の不安定さを脱するために相互に合意(契約)して政府・国家を形成したとする政治哲学。ホッブズ(国家は強力な統治者に権力を委託した産物)、ロック(政府は人民の信託を受けており基本権侵害時は抵抗権が発生する)、ルソー(一般意志に基づく直接民主制)の三者が代表的論者。ロックの理論はアメリカ独立宣言・イギリス名誉革命の理論的基盤となり、ルソーの理論はフランス革命に影響した。近代民主主義・立憲主義の哲学的根拠として今日も参照される。
16世紀にヨーロッパで起きたキリスト教会の改革運動。1517年にマルティン・ルターが九十五ヶ条の論題を掲示したことに始まり、カトリック教会の腐敗を批判してプロテスタント諸派が成立した。カルヴァン、ツヴィングリなども改革を推進し、ヨーロッパの宗教地図を根本から変えた。宗教戦争や三十年戦争を経て、ウェストファリア条約で一定の決着を見る。
16〜18世紀のヨーロッパ諸国で広く採られた経済政策および経済思想の総称。国富を金銀(貴金属)の保有量ではかる考え方を基礎とし、輸出を奨励して輸入を抑え、貿易差額を黒字に保つことで国力を高めようとした。初期にはスペインのように新大陸の銀の直接獲得を重視する重金主義(ブリオニズム)がみられ、のちにイングランドのトマス・マンらが説いた貿易差額主義へ、さらにフランスのコルベールに代表される、国内マニュファクチュアの育成を国家が主導する国家主義的な産業政策(コルベール主義)へと展開した。具体的な手段としては、保護関税や航海法による海運の保護、東インド会社などの特許会社への独占権付与、植民地を原料供給地かつ本国製品の市場として囲い込む植民地政策があげられる。人口や労働力の増加も国力の源泉とみなされた。18世紀後半以降、フランスの重農主義やアダム・スミス『国富論』(1776年)の自由貿易論から、富の源泉を貴金属ではなく生産と分業に求める立場で批判され、19世紀の自由貿易政策へと道を譲った。なお「重商主義」という呼称自体は、批判者であるスミスらが用いた用語に由来する。
16世紀から18世紀のヨーロッパで、国王が身分制議会や封建貴族の制約をほとんど受けずに統治した政治体制。常備軍と官僚制という二つの支柱を国王が直接掌握し、その維持費を支えるために重商主義政策がとられた点に特徴がある。正統性の根拠としては、王権は神から授けられたもので人民や教会に対して責任を負わないとする王権神授説が用いられ、イングランドのジェームズ1世やフランスのボシュエがこれを説いた。フランスではユグノー戦争後のブルボン朝のもとで王権が強化され、宰相リシュリューやマザランを経て、1661年に親政を始めたルイ14世が三部会を開かずに統治し、ヴェルサイユ宮殿に貴族を集めて宮廷社会を築いた(「朕は国家なり」の言葉は後世の伝承で、実際に述べた確証はない)。スペインではフェリペ2世、ロシアではピョートル1世が同様に集権化を進めた一方、イングランドでは議会との対立が内戦(ピューリタン革命)と1688年の名誉革命を招き、立憲君主制へ移行した。18世紀には啓蒙思想を統治に取り入れたプロイセンのフリードリヒ2世、オーストリアのヨーゼフ2世、ロシアのエカチェリーナ2世らが「啓蒙専制君主」と呼ばれる改革を行った。フランス革命は絶対王政を正面から否定し、主権が国民にあるとする原則を掲げた。なお近年の研究では、現実の王権も地方の特権・司法機関・身分団体に制約されており、「絶対」という語が実態以上に強い集権を思わせるとして、この概念自体を見直す議論もある。
応仁の乱(1467年)以降、室町幕府の権威が失墜し、各地の大名・国人が覇権を争った約100年間の動乱期。将軍家と有力守護大名の家督争いが結びついて起きた応仁の乱は、京都を主戦場に11年に及び、諸大名が領国へ引き揚げたあとの幕府は畿内の一政権に転落した。地方では守護代や国人が主家を退けて実権を握る「下剋上」が相次ぎ、伊勢宗瑞(北条早雲)や斎藤道三のように出自にとらわれず一国を切り取る者が現れた。彼ら戦国大名は分国法を定めて家臣団と領民を直接支配し、検地によって収穫高を把握し、城下町に商工業者を集めて富国強兵を進めた。合戦では足軽を組織した集団戦法が主流となり、1543年に伝来した鉄砲は戦術と築城のあり方を大きく変えた。一方で山城国一揆や加賀の一向一揆のように、武士以外の勢力が地域を自治する動きも生まれた。こうした分立状態は、織田信長の上洛と畿内平定、豊臣秀吉による全国統一(1590年)を経て収束し、徳川家康が江戸幕府を開いて新たな秩序が確立した。
豊臣秀吉が全国規模で実施した土地調査事業。田畑の面積・等級・収穫高を統一基準で計測し、石高制の基礎を確立した。これにより荘園制が完全に解体され、一つの土地に一人の耕作者を定める「一地一作人」の原則が確立。刀狩と合わせて兵農分離を制度的に完成させ、近世の社会構造を決定づけた。
15世紀後半から17世紀前半にかけて、ヨーロッパ諸国が新航路の開拓と海外進出を活発に行った時代。1492年のコロンブスによるアメリカ大陸到達、1498年のヴァスコ・ダ・ガマのインド航路開拓、1519〜22年のマゼラン艦隊の世界一周などが代表的。ポルトガルとスペインが先駆けとなり、後にオランダ・イギリス・フランスも参入した。植民地支配と世界経済の一体化の出発点。
15〜19世紀にかけてヨーロッパ・アフリカ・アメリカ大陸を結んで行われた奴隷交易。ヨーロッパ商人がアフリカから推計1,000〜1,200万人の人々を強制的に連行しアメリカ大陸のプランテーション(砂糖・綿花・タバコ農場)で奴隷労働に従事させた。ヨーロッパは武器・繊維をアフリカへ、奴隷をアメリカへ、砂糖・綿花をヨーロッパへと三角形の貿易ルートが形成された。この制度はアフリカの人口・社会を根底から破壊し、アメリカの人種問題・格差の根源となった。イギリスは1807年に奴隷貿易、1833年に奴隷制を廃止した。
1588年、豊臣秀吉が発令した法令。農民から武器(刀・槍・鉄砲など)を没収し、兵農分離を推し進めた画期的な政策。表向きは「方広寺の大仏の釘にする」という名目だったが、実際には一揆の防止と身分秩序の固定化が目的。これにより武士と農民の身分が明確に区別され、近世社会の基盤が形成された。
織田信長・豊臣秀吉が推進した、武士と農民の身分と生活を明確に分離する政策。中世の「地侍」は農民でもあり武士でもあったが、信長の楽市楽座・城下町整備、秀吉の太閤検地(農民を土地に縛りつける)・刀狩令(農民から武器を没収する)によって武士は城下に集住し農業から切り離された。この分離により軍事と農業生産が専門化・効率化し、常備軍の形成が可能になった。江戸時代の士農工商という身分制度の基盤となった。
江戸時代(1603〜1867年)の政治支配体制。将軍が率いる江戸幕府(「幕」)と、全国約260の藩(「藩」)が有機的に結びついた封建的統治システム。幕府は大名に参勤交代・武家諸法度を課して統制し、土地(知行)の分配と収奪の権限を握った。各藩は内政の独自性を持ちながらも将軍への忠誠を義務付けられた。士農工商の身分制度と鎖国政策がこの体制を支えた。ペリー来航以降の対外圧力と藩勢力の台頭によりこの体制が動揺し、1867年の大政奉還で解体された。
1688年にイングランドで起きた無血の政変。カトリック復興を図るジェームズ2世に対し、議会がオランダのウィレム3世(ウィリアム3世)とメアリー2世を招聘して王位に就けた。翌1689年には権利の章典が制定され、議会主権・法の支配の原則が確立した。フランス革命のような流血を伴わなかったため「名誉革命」と呼ばれる。近代立憲君主制の出発点。
G7に加えて中国、インド、ブラジル、ロシア、韓国、オーストラリアなど新興国を含む20の国・地域による首脳会議。2008年のリーマン・ショック(世界金融危機)を契機に首脳レベルの会議が定例化した。世界のGDPの約85%を占めるメンバーで構成され、G7よりも幅広い代表性を持つ。
アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、日本、イタリア、カナダの7カ国による首脳会議の枠組み。1975年にG6として発足し、翌年カナダが加わりG7となった。1997年〜2014年はロシアを含むG8だったが、クリミア併合を受けてG7に戻った。国際経済政策の協調や安全保障問題を議論する場として機能している。
1949年に設立された西側諸国の軍事同盟。アメリカ、カナダ、イギリス、フランスなど12カ国で発足し、現在は32カ国が加盟。加盟国への攻撃は全加盟国への攻撃とみなす集団防衛条項(第5条)が核心。冷戦期はソ連・ワルシャワ条約機構に対抗する西側の防衛の柱だった。冷戦後も東欧に拡大を続け、2022年のロシアによるウクライナ侵攻後はフィンランド・スウェーデンも加盟した。
紛争地域に国連の部隊を派遣し、停戦監視や治安維持を行う活動。国連憲章には明文規定がなく「6章半」とも呼ばれる。冷戦終結後に急増し、カンボジア、ボスニア、東ティモールなどで展開された。日本は1992年のPKO協力法成立後、カンボジアへの自衛隊派遣を皮切りに参加している。
2015年の国連サミットで採択された、2030年までに達成を目指す17の国際目標。前身のMDGs(ミレニアム開発目標)を引き継ぎ、貧困・飢餓・医療・教育・ジェンダー平等・気候変動・生物多様性など地球規模の課題を網羅する。193か国が合意した「誰一人取り残さない(No one left behind)」を理念に掲げる。先進国・途上国双方に課題が設定されたことが新しい。日本では企業のCSR・学校教育・地方自治体の政策立案にも組み込まれているが、進捗の遅れを指摘する報告書も相次いでいる。
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、イギリス連合王国の枠内でアイルランド独自の議会と自治政府の設立を求めた政治運動。1870年にアイザック・バットが自治政府協会を設立して提唱し、1880年代にはチャールズ・スチュワート・パーネル率いるアイルランド議会党が運動を主導した。グラッドストン内閣が提出した第1次(1886年)・第2次(1893年)自治法案はいずれも議会で退けられ、1914年に第3次自治法が成立したものの第一次世界大戦の勃発により施行が凍結された。自治実現の遅れは武装闘争路線の台頭を招き、1916年のイースター蜂起から独立戦争を経て1922年のアイルランド自由国成立へとつながった。
1948年から1994年まで南アフリカ共和国で制度化された徹底的な人種隔離政策。アフリカーンス語で「分離・隔離」を意味する。少数派の白人(人口約1割)が政治・経済の全権を握り、住民登録法・集団地域法・パス法などにより黒人・カラード・インド系を居住地・職業・教育・結婚・交通機関に至るまで厳格に分離した。黒人は「ホームランド」と呼ばれる指定地区に押し込められ市民権を奪われた。国際社会の経済制裁・スポーツ交流断絶・反アパルトヘイト運動の世界的広がりの中、1990年のネルソン・マンデラ釈放と1994年の全人種参加選挙でマンデラ政権が誕生し撤廃された。
第一次世界大戦期の1915年4月24日から始まる、オスマン帝国青年トルコ人政権によるアルメニア人の組織的殺戮と強制移住。首都イスタンブルで知識人数百人が一斉検挙されたのを皮切りに、徴兵中のアルメニア人男性の殺害、女性・子供・老人のシリア砂漠への死の行進が続き、1923年までに100万〜150万人が命を落とした。「ジェノサイド」という概念を提唱したラファエル・レムキンが主たる事例として念頭に置いた出来事でもある。欧米諸国の多くが公式にジェノサイドと認定しているが、トルコ政府は現在もジェノサイド性を否認し、外交上の大きな論点となっている。
1919年に締結された第一次世界大戦の講和条約。敗戦国ドイツに対し、領土の割譲、軍備制限、巨額の賠償金(1320億金マルク)を課した。ドイツ国民の間に強い屈辱感と不満を生み、後のナチス台頭の土壌となった。また、この条約に基づいて国際連盟が設立されたが、条約の過酷さがかえって国際秩序の不安定化を招いたと評される。
1975〜1979年のクメール・ルージュ政権下のカンボジアで、ポル・ポト率いる共産政権が知識人・都市住民・少数民族・旧政権関係者らを組織的に殺害した大量処刑地の総称。全土に約2万カ所の処刑場・集団埋葬地が確認され、首都プノンペン郊外のチュンエクや尋問・拷問センター「S-21」(トゥール・スレン)が象徴的な記念施設となっている。推定犠牲者は約170万人に上り、当時のカンボジア人口の約4分の1が命を落とした。極端な原始共産主義イデオロギーが引き起こした20世紀最悪規模のジェノサイドの一つ。
ソビエト連邦の強制労働収容所システムの総称。正式名は「矯正労働収容所総管理局(Главное управление лагерей)」の頭字語で、1930年に内務人民委員部(NKVD)の下で統合・組織化された。農業集団化に反対した富農(クラーク)、1930年代の大粛清で逮捕された「人民の敵」、ナチス占領地からの帰還兵、少数民族など幅広い人々が政治犯として収容され、シベリア・極北・中央アジアの極寒地で鉱山・森林・運河建設に酷使された。スターリン時代(1929〜1953年)の被収容者は延べ1,800万人以上、犠牲者は約170万〜200万人と推定される。ソルジェニーツィンの『収容所群島』が全容を世界に知らしめ、ソ連体制の人権侵害を象徴する語となった。
国境を越えて人・モノ・カネ・情報が流通し、世界が経済的・文化的・政治的に相互依存する過程。1990年代のインターネット普及・冷戦終結・WTO設立を契機に急加速した。多国籍企業の展開・グローバルサプライチェーン・SNSによる文化の均質化がその象徴。先進国では雇用の空洞化・格差拡大、途上国では経済発展・環境破壊という両面をもたらした。2008年のリーマンショック・2020年のCOVID-19パンデミック・米中対立などが露呈したように、リスクも国境を越えて瞬時に拡散する「グローバルリスク」の時代でもある。
各国の首脳(大統領・首相)が直接集まって国際的な課題を議論する会議の総称。特にG7サミット(先進7カ国首脳会議)を指すことが多い。1975年のランブイエ・サミットが最初で、以後毎年開催されている。議長国が持ち回りで運営し、経済・安全保障・気候変動など幅広いテーマを扱う。
1948年12月9日に国連総会で採択された、ジェノサイド(集団殺害)を国際犯罪として定義・禁止する国際条約(翌年から署名開放、1951年発効)。ポーランド出身のユダヤ人法学者ラファエル・レムキンが1944年の著書『占領下ヨーロッパにおける枢軸国の支配』で造語した「ジェノサイド(genocide、ギリシャ語 genos〈種族〉+ラテン語 caedere〈殺す〉)」を国際法上の犯罪類型として確立した。第2条は「国民的・民族的・人種的・宗教的集団」の全部または一部を破壊する意図で行われる①殺害、②重大な身体的・精神的危害、③生活条件の破壊、④出生妨害、⑤児童の強制移送を列挙し、未遂・教唆・共謀も処罰対象とする。2024年時点で153か国が批准しているが、重要な留保も多い(例:アメリカは1988年批准時に第9条の国際司法裁判所(ICJ)管轄権に留保を付した)。第9条に基づき、ICJはボスニアvsセルビア・モンテネグロ裁判(1993)、ガンビアvsミャンマー裁判(2019、ロヒンギャ事件)、南アフリカvsイスラエル裁判(2023)などを審理してきた。政治的・階級的集団が対象から除外された点は成立当初から批判が根強く、「文化的ジェノサイド」「エコサイド(生態系破壊)」など概念拡張の議論が現在も続く。
パレスチナの地に古代イスラエルを再建し、ユダヤ人の民族的郷土を確立しようとする19世紀末の民族運動・政治思想。1881年のロシア帝国でのユダヤ人虐殺(ポグロム)や1894年フランスのドレフュス事件で顕在化した反ユダヤ主義を背景に、テオドール・ヘルツルが1896年『ユダヤ人国家』を刊行し翌1897年スイス・バーゼルで第1回シオニスト会議を開催して運動が本格化した。1917年のバルフォア宣言で英国の支持を得、ホロコーストを経て1948年のイスラエル建国に結実した。現在はイスラエル国家体制の公式イデオロギーとして続くが、パレスチナ人排除を巡って激しい国際的論争の対象でもある。
政治的・宗教的・イデオロギー的目的を達成するために、民間人を含む無差別暴力で社会に恐怖を与える行為。近代的テロリズムは19世紀のロシア・アナーキスト運動に端を発する。20世紀後半に多発し、2001年の9.11同時多発テロ(アルカイダによる米国同時攻撃・死者約3,000人)はアフガニスタン侵攻・「対テロ戦争」・イラク戦争を引き起こし国際秩序を根本から変えた。イスラム過激派・極右テロ・国家支援テロなど形態は多様。「一方の英雄は他方のテロリスト」という定義の困難さも内包している。
共通の言語・文化・歴史を持つ集団(国民・民族)が、独自の国家を形成・維持すべきだとする思想・運動。フランス革命後にヨーロッパで急速に広まり、イタリア統一やドイツ統一、ギリシャ独立戦争など19世紀の国家形成運動を推進した。一方で排外主義や帝国主義とも結びつき、20世紀の二度の世界大戦の遠因ともなった。
国家・民族の優越と強力な指導者への絶対的服従を掲げ、反共産主義・反自由主義を特徴とする20世紀の政治イデオロギー。イタリアのムッソリーニが1919年に創始し、ドイツでヒトラーのナチズム(国家社会主義)として極端化した。議会制民主主義を否定し、プロパガンダ・暴力・スケープゴーティングで支持を得た。スペインのフランコ、日本の軍国主義も広義のファシズムとされる。第二次世界大戦での敗北により主要国では瓦解したが、21世紀に入り「新ファシズム」「ポピュリズム権威主義」の形で再台頭が議論されている。
1985年9月22日、ニューヨークのプラザホテルで開かれたG5(アメリカ・イギリス・フランス・西ドイツ・日本)の蔵相・中央銀行総裁会議で発表された、ドル高是正のための政策協調に関する合意。1980年代前半のアメリカでは、インフレ抑制のための高金利政策に大型減税と軍事支出の拡大が重なってドル高が進み、貿易赤字と財政赤字が並行して膨らむ「双子の赤字」が深刻化していた。議長国アメリカのベーカー財務長官が主導し、日本からは竹下登蔵相が出席した。参加国は、主要通貨の対ドル相場の秩序ある上昇が望ましいとの認識を共有し、そのための協調介入に踏み切った。発表直後から円とマルクは急騰し、円相場は合意前の1ドル=240円前後から1年余りで150円台に達した。急速な円高は日本の輸出産業を圧迫して円高不況をもたらし、これに対応して日本銀行は公定歩合の引き下げを重ね、内需拡大策と相まって過剰な流動性が株式や不動産に向かった。こうした経緯から、プラザ合意はその後のバブル経済を準備した要因の一つとして論じられることが多い。1987年のルーブル合意では、行き過ぎたドル安に歯止めをかけるため為替相場の安定が目標に切り替えられた。
1901年にアメリカ合衆国議会が陸軍予算法の修正として可決し、キューバの独立の条件とした一連の規定。提案者である上院議員オービル・H・プラットの名にちなむ。キューバに対して、その独立を損なうような対外条約を結ばないこと、返済能力を超える国債を発行しないこと、生命・財産・個人の自由の保護とキューバの独立維持のためにアメリカが介入する権利を認めること、衛生事業を継続すること、海軍基地・給炭地としての用地をアメリカに貸与または売却することなどを求めた。アメリカ軍政当局は、この内容をキューバ憲法の附則として受け入れなければ撤兵しないという立場をとり、キューバ制憲議会は反対論の強いなか1901年6月にこれを承認、1902年5月20日の共和国発足とともに効力を持った。1903年には条項に基づいてグアンタナモ湾の租借協定が結ばれ、また1906〜1909年をはじめアメリカによる介入が繰り返された。キューバでは主権を制約する象徴とみなされ、フランクリン・ローズヴェルト政権の善隣外交のもと1934年の関係条約によって廃棄されたが、グアンタナモ基地の租借はその後も継続した。
犯罪の手口や現場の状況から犯人の心理的・行動的特徴を推定する捜査手法。1888年の切り裂きジャック事件で外科医トマス・ボンドが犯人像を分析したのが起源とされる。FBIの行動科学課が1970年代に体系化し、ゾディアック事件やテッド・バンディ事件などで活用された。日本では2000年の世田谷事件以降、警察での導入が本格化した。
第二次世界大戦期(1941〜1945年)にナチス・ドイツとその協力者が組織的に行ったユダヤ人大量殺戮。1935年のニュルンベルク法による市民権剥奪、1938年の「水晶の夜」を経て、1942年のヴァンゼー会議で「最終的解決」として絶滅政策が計画化された。アウシュヴィッツ=ビルケナウ、トレブリンカ、ソビボルなど欧州各地の強制収容所・絶滅収容所で約600万人のユダヤ人(当時の欧州ユダヤ人人口の約3分の2)が命を落とし、シンティ・ロマ、同性愛者、障がい者、ソ連捕虜なども犠牲となった。人類史上最も徹底した官僚主義的ジェノサイドとして、戦後の人権法・ジェノサイド条約・イスラエル建国運動に決定的影響を与えた。
19世紀のアメリカ合衆国で広まった、大陸を西へ拡張することは神から与えられた「明白な運命」であるとする考え方。この語は1845年、ジャーナリストのジョン・オサリヴァンがテキサス併合とオレゴン境界問題を論じた文章で用いたことから広まったとされる。共和政の自由な制度を広める使命という理念と、農地や港湾を求める現実の利害が結びついており、テキサス併合(1845年)、オレゴン条約による北西部の境界確定(1846年)、米墨戦争(1846〜1848年)によるカリフォルニアなど広大な領土の獲得を正当化する論理として用いられた。1862年のホームステッド法や大陸横断鉄道の開通は、この拡張を実際の入植として支えた。他方でこの思想は、先住民を「文明化されていない」存在とみなす見方と結びつき、強制移住や保留地政策の根拠にもなった。また新たに獲得した領土で奴隷制を認めるかどうかをめぐる対立は南北の亀裂を深め、南北戦争へ至る一因となった。19世紀末には、海外の領土や市場へ関心を向ける膨張論を支える発想としても援用された。
1823年12月2日、アメリカ大統領ジェームズ・モンローが連邦議会に送った年次教書のなかで示した外交上の原則。起草には国務長官ジョン・クインシー・アダムズが主導的な役割を果たした。内容は、南北アメリカ大陸をヨーロッパ列強による新たな植民地化の対象とはみなさないこと、ヨーロッパの政治体制をアメリカ大陸へ及ぼそうとする干渉を合衆国への非友好的行為とみなすこと、そのかわり合衆国はヨーロッパ内部の紛争や既存の植民地には関与しないこと、の三点に要約される。背景には、ラテンアメリカ諸国の相次ぐ独立に対して神聖同盟の干渉が懸念されたこと、太平洋岸で南下するロシアとの領土問題があった。当時の合衆国にこれを軍事的に裏づける力はなく、実際に列強の干渉を抑えていたのはラテンアメリカ市場を求めるイギリスの海軍力だったため、宣言は直ちに大きな効果を持ったわけではない。「モンロー・ドクトリン」という呼称が定着するのは1840年代以降で、1845年にポーク大統領がテキサス併合やオレゴン問題に関連して援用し、領土拡張を正当化する論拠としても用いられるようになった。1895年のベネズエラ国境紛争ではオルニー国務長官がこれを拡大解釈して西半球における合衆国の優越を主張し、1904年にはセオドア・ローズヴェルトがいわゆる「ローズヴェルトの系論」を唱え、政情不安な近隣国に対して合衆国が「国際警察力」を行使すると宣言して、カリブ海・中米への軍事介入の根拠とした。1930年代のフランクリン・ローズヴェルト政権は善隣外交を掲げて介入政策を修正し、第二次世界大戦後は米州機構(OAS)など多国間の枠組みに置き換えられていったが、1962年のキューバ危機の際にも援用が語られた。2013年、ケリー国務長官はOASでの演説で「モンロー・ドクトリンの時代は終わった」と述べている。
1940年代後半から1950年代にかけてコロンビアで続いた、自由党と保守党の支持者による大規模な政治的暴力の時代を指す呼称。19世紀の千日戦争以来くすぶっていた二大政党の対立は、1946年の政権交代前後から地方で衝突を繰り返すようになり、1948年4月9日に自由党の指導者ホルヘ・エリエセル・ガイタンが暗殺されて首都で暴動(ボゴタソ)が起きると、暴力は全国の農村へ一気に拡大した。争いは正規の戦闘というより、村落単位での襲撃・報復・土地の収奪という形をとり、多くの農民が住み慣れた土地を離れた。犠牲者は約20万人と見積もられることが多い。1953年のロハス・ピニーリャ将軍による軍事政権はいったん武装解除を進めたが沈静化には至らず、1958年に両党が大統領職と官職を交互に分け合う「国民戦線」体制を発足させたことで、党派対立を軸とする暴力はようやく収束に向かった。もっとも武装解除に応じなかった農民自衛組織の一部は残存し、1960年代のゲリラ組織の形成につながったため、ラ・ビオレンシアはその後の内戦の前史としても位置づけられている。
国際連合の主要機関の一つで、国際平和と安全の維持に主要な責任を持つ。アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国の常任理事国5カ国と、任期2年の非常任理事国10カ国で構成される。常任理事国には拒否権が与えられており、1カ国でも反対すれば実質的な決議は成立しない。経済制裁や軍事行動の承認など、法的拘束力のある決定を行える唯一の機関。
核兵器を保有することで相手国の先制核攻撃を思いとどまらせるという安全保障理論。「報復能力」を維持することで攻撃を「割に合わない」と認識させる「相互確証破壊(MAD:Mutually Assured Destruction)」が核抑止の本質。米ソ冷戦期の核軍拡競争の論理的基盤となった。現在の核保有国は米・露・英・仏・中・印・パキスタン・イスラエル(非公式)・北朝鮮の9か国とされる。核不拡散条約(NPT)は核拡散を防ぎながら軍縮を促す仕組みだが、北朝鮮・イランの問題など課題は山積している。
国連安全保障理事会の常任理事国(米英仏露中)が持つ特権。実質的な決議に対して1カ国でも反対すれば否決される仕組み。大国を国連の枠組みに留めるための「取引」として設計された。冷戦中は米ソが互いに拒否権を行使して安保理を機能不全に陥れることが頻発した。現在も安保理改革の最大の論点の一つ。
フランス革命期の1793年6月から1794年7月にかけて、ジャコバン派のロベスピエールを中心に行われた急進的な革命政治のこと。革命裁判所による裁判で「革命の敵」と見なされた人々が次々とギロチンで処刑され、犠牲者は推定16,000〜40,000人に達した。王妃マリー・アントワネット、ダントン、エベールなどが処刑された。テルミドール反動でロベスピエール自身も処刑されて終結。
国際法に違反した国や勢力に対し、貿易の制限、資産凍結、渡航禁止などの経済的手段で圧力をかける外交手段。国連安保理の決議に基づくもの(国連制裁)と、個別の国が独自に行うもの(単独制裁)がある。国際連盟時代は実効性を欠いたが、現代では金融制裁(SWIFT排除など)の発達により強力な外交ツールとなっている。
犯人がマスメディアや世間の注目を意図的に集め、社会全体を巻き込むように演出する犯罪の形態。犯行声明や挑戦状を送りつけ、捜査機関を嘲笑するパターンが典型的。グリコ・森永事件の「かい人21面相」や切り裂きジャックの手紙などが代表例。メディアの報道が犯人の意図通りに進むことで、社会的パニックを増幅させる構造を持つ。
一定期間の経過により検察官が公訴(起訴)を提起できなくなる制度。日本では2010年の刑事訴訟法改正により、殺人など死刑に当たる罪の公訴時効が撤廃された。それ以前は殺人の時効は15年(後に25年)で、三億円事件(1975年時効成立)やグリコ・森永事件(2000年時効成立)は時効により犯人が訴追されなかった代表例。
1945年に設立された国際機関で、現在193カ国が加盟する世界最大の国際組織。第二次世界大戦の連合国を中心に、国際連盟の失敗を教訓として設計された。本部はニューヨーク。安全保障理事会(常任理事国5カ国の拒否権付き)を中心に、平和維持、人権保護、経済開発、人道支援など多方面で活動している。
1920年に設立された人類初の国際平和維持機構。第一次世界大戦の反省から、アメリカのウィルソン大統領の提唱で生まれた。本部はスイスのジュネーブ。しかし提唱国アメリカが不参加、軍事力の欠如、全会一致の原則などの構造的欠陥を抱え、満州事変やエチオピア侵攻を止められず、第二次世界大戦を防げなかった。1946年に解散し、国際連合に役割を引き継いだ。
18世紀後半のイギリスで始まり、手工業から機械制大工場による生産へと移行した一連の技術的・社会的変革。綿工業ではハーグリーヴズのジェニー紡績機、アークライトの水力紡績機、クロンプトンのミュール紡績機などの発明が相次ぎ、ジェームズ・ワットが改良した蒸気機関が動力源として普及したことで生産力が飛躍的に高まった。コークスを用いた製鉄法による鉄の大量供給や、1825年のストックトン・ダーリントン鉄道の開通に象徴される鉄道・蒸気船の発達は、原料と製品の輸送を一変させた。イギリスで先行した背景としては、囲い込みの進展にともなう農業の変化と労働力の供給、広大な海外市場と植民地、豊富な石炭・鉄鉱石の存在などが挙げられる。結果として都市化が急速に進み、工場労働者からなる労働者階級が形成される一方、長時間労働や児童労働、都市のスラム化といった問題が生じ、労働運動や社会主義思想が広がった。19世紀にはベルギー・フランス・ドイツ・アメリカへ、さらに明治期の日本へも波及し、「世界の工場」と呼ばれたイギリスを中心とする近代世界経済の枠組みを形づくった。
生産手段を社会が共同で所有・管理することによって、資本主義の下で生じる格差や貧困を是正しようとする思想と、それに基づく社会体制の総称。19世紀前半のヨーロッパで、産業革命がもたらした労働者の窮乏を背景に、サン=シモン、フーリエ、ロバート・オーウェンらが理想的な共同社会の構想を唱えた(のちにマルクスらから「空想的社会主義」と呼ばれた)。マルクスとエンゲルスは1848年の『共産党宣言』などで、資本主義の分析と階級闘争の理論に基づく体系を示し、これが以後の運動の中心的な理論となった。19世紀後半には各国に社会主義政党や労働組合が生まれ、第一インターナショナル・第二インターナショナルを通じて国際的な連携が図られたが、革命によって体制の転換を目指す潮流と、議会を通じた漸進的改革を重んじる潮流(ベルンシュタインらの修正主義、社会民主主義)とに分かれていった。1917年のロシア革命はレーニンの指導する前者の系譜から生まれ、ソ連では生産手段の国有化と中央集権的な計画経済が実施された。第二次世界大戦後は東欧・中国・キューバ・ベトナムなどにも同様の体制が広がり、アジア・アフリカの新興国でも民族主義と結びついた独自の社会主義が掲げられた。他方、西ヨーロッパの社会民主主義政党は市場経済を前提としつつ、基幹産業の国有化や社会保障制度の拡充を通じた福祉国家の形成を担った。計画経済の非効率や政治的自由の制限は次第に批判を集め、1989年の東欧革命と1991年のソ連解体によって多くの社会主義体制は崩壊し、中国やベトナムは共産党の一党支配を保ちながら市場経済を導入する路線に転換した。現在も社会主義は、格差是正や公共部門の役割をめぐる議論のなかで多様な形で参照されている。
加盟国の一国が攻撃を受けた場合、他の加盟国が共同で侵略国に対処するという国際安全保障の仕組み。国際連盟で初めて制度化されたが実効性を欠き、国際連合ではより強力な形(安保理による制裁・軍事行動の承認)で再設計された。NATOやワルシャワ条約機構のような地域的集団安全保障もこの概念に含まれる。
1918年にアメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領が発表した第一次世界大戦後の和平構想。秘密外交の廃止、海洋の自由、軍備縮小、民族自決、そして最後の第14条で国際平和機関(後の国際連盟)の設立を提唱した。理想主義的な内容で、パリ講和会議の議論に大きな影響を与えたが、現実の講和条約(ヴェルサイユ条約)では多くが骨抜きにされた。
強国が他の地域・民族を政治的・経済的・文化的に支配する体制と思想。15世紀の大航海時代以降、ヨーロッパ列強がアジア・アフリカ・アメリカに植民地を設けた。帝国主義との違いは、植民地主義が直接的な領土支配・居住・搾取を指すのに対し、帝国主義は間接的支配や勢力圏拡張を含む広い概念。植民地支配は現地の言語・文化・宗教を破壊しながら、原材料の収奪と商品市場化を進めた。20世紀の脱植民地化(1945〜1970年代)で公式には終焉したが、経済的・文化的「新植民地主義」は今も議論される。
冷戦終結後にジョージ・H・W・ブッシュ米大統領が提唱した国際秩序の構想。東西対立が消滅した世界で、国連を中心とした国際協調と法の支配に基づく平和を目指すというビジョン。湾岸戦争での多国籍軍による集団安全保障がその象徴とされた。しかし、その後のソマリア、ルワンダ、ユーゴスラビアでの紛争により理想と現実の乖離が明らかになった。
すべての人間が生まれながらに持つとされる普遍的・不可侵の権利。自然権思想(ロック・ルソー)に哲学的基礎を持ち、フランス革命の人権宣言(1789年)・アメリカ独立宣言(1776年)で近代法制化された。1948年の国連「世界人権宣言」が国際標準を定め、その後「市民的・政治的権利規約」「経済的・社会的・文化的権利規約」(1966年)が条約として採択された。生存権・自由権・平等権・参政権などを含む。一方で「文化相対主義(各文化に固有の価値観がある)」vs「普遍主義(人権は文化を超える)」の対立は今日も続く。
正式名称は「人間と市民の権利の宣言」。1789年8月26日にフランス国民議会で採択された。「人は自由かつ権利において平等なものとして生まれ、かつ生きる」と宣言し、自由・所有・安全・圧政への抵抗を自然権として認めた。近代民主主義と人権思想の原点の一つであり、世界各国の憲法に影響を与えた。
幕末の政治思想・運動スローガン。「尊王」は天皇を尊び政治権威を朝廷に戻すこと、「攘夷」は外国勢力(夷狄)を排除することを意味する。江戸後期の水戸学(藤田東湖ら)に起源を持ち、ペリー来航(1853年)後の開国・不平等条約締結を機に倒幕・反外国勢力を訴える運動として過激化した。長州藩を中心に外国船への砲撃事件(1863年)も起きた。しかし攘夷の非現実性を認識した多くの志士が「倒幕=尊王」に転換し、薩長同盟を通じた倒幕・明治維新の推進力となった。
複数の国が共同で編成する軍事力。国連安保理決議に基づくもの(湾岸戦争の多国籍軍)と、特定の国の呼びかけに応じた「有志連合」(イラク戦争)がある。湾岸戦争では34カ国、約70万人が参加し、アメリカが指揮を執った。国際法上は国連憲章第42条(安保理の軍事的措置)や第51条(集団的自衛権)が根拠となる。
1940年に近衛文麿首相が結成した「一国一党」的政治組織。既存の全政党が解散・合流して成立し、天皇・政府の政策を「翼賛(補佐)」することを掲げた。戦時体制を支える総動員機構として機能し、地域の隣組・農業会・労働組合なども傘下に収め、国民生活の全分野を統制した。ナチスの一党独裁と異なり政党としての強制力は持たなかったが、言論・思想統制と戦争協力の動員に重要な役割を果たした。1945年の敗戦とともに解散した。
1940年代に日本が掲げた「欧米の植民地支配からアジアを解放し、日本主導のアジア経済圏を建設する」という構想・スローガン。実態は日本の軍事支配と経済収奪体制であり、占領地から物資・労働力を強制的に収奪した。タイ・ビルマ(ミャンマー)・フィリピン・インドシナなどを「解放」と称して占領し、日本語教育・皇民化政策を押し進めた。アジア各地で抵抗運動が起き、日本軍による虐殺事件も多数発生した。戦後に否定されたが、「欧米植民地からの解放」という側面の再評価は今も論争の的。
核兵器、化学兵器、生物兵器の総称。一度の使用で大規模な人的被害をもたらす兵器を指す。イラク戦争(2003年)では、イラクがWMDを保有しているという情報が開戦の根拠とされたが、戦後の調査で発見されず、情報の信頼性と戦争の正当性が大きく問われた。核不拡散条約(NPT)や化学兵器禁止条約(CWC)などにより国際的に規制されている。
第二次世界大戦後、1945〜1970年代にかけてアジア・アフリカ・太平洋の植民地が相次いで独立した歴史的過程。1955年のバンドン会議(アジア・アフリカ会議)が植民地独立運動を国際的に後押しした。1960年は「アフリカの年」と呼ばれ17か国が独立。インドのガンディー(非暴力)、アルジェリアの武力独立、ベトナムの長期抗戦など様々な形を取った。独立後も旧宗主国の経済的影響が続く「新植民地主義」の問題や、民族・宗教の境界を無視した国境設定が今日の紛争の遠因となっている。
1873年(明治6年)に明治政府が実施した土地・税制の根本改革。江戸時代の年貢(収穫量に応じた現物納付)を廃止し、土地の価格(地価)の3%を金銭で納める「地租」に統一した。土地所有者に地券を交付して私的土地所有権を確立した。これにより政府の財政が安定し(地租は明治前期の財政収入の70〜80%を占めた)、近代資本主義の基盤となる土地市場が成立した。一方で農民の税負担は重く、1876〜1877年に地租改正反対の農民一揆が多発し、翌年に地価の2.5%へと引き下げられた。
強大な国家が軍事力・経済力・政治的影響力を用いて他の地域を支配し、植民地や勢力圏に組み込もうとする政策および思想。語自体は古代ローマの「インペリウム(命令権・支配権)」に由来するが、歴史用語としては特に1870年代から第一次世界大戦にかけての列強の対外膨張、いわゆる「新帝国主義」を指すことが多い。背景には、第二次産業革命による重化学工業の発展と、原料供給地・製品市場・資本の投下先を求める競争、蒸気船・鉄道・電信の普及、キニーネによるマラリア対策や後装式ライフルなど軍事・医療技術の進歩があった。ナショナリズムや、文明化の使命を掲げる言説、社会進化論的な人種観も膨張を正当化する役割を果たした。アフリカでは1884〜85年のベルリン会議で列強間の領有の原則が取り決められ、20世紀初頭までにエチオピアとリベリアを除くほぼ全域が分割された。アジアでは、イギリスがインドを直轄統治しビルマ・マレー半島へ、フランスがインドシナへ進出し、清朝には列強の勢力範囲と租借地が設定された。アメリカは1898年の米西戦争でフィリピン・グアム・プエルトリコを得て太平洋に進出し、日本も日清・日露戦争を経て台湾・朝鮮を領有した。理論的な説明としては、J・A・ホブソンが『帝国主義論』(1902年)で国内の過少消費と過剰資本に原因を求め、レーニンが『帝国主義論』(1917年)でこれを資本主義の最高段階と位置づけた。一方、経済的動機よりも戦略的・政治的要因や現地社会の側の事情を重視する研究もあり、単一の要因では説明できないとされる。列強の勢力圏争いは同盟関係の対立を深め、第一次世界大戦の一因となった。第二次世界大戦後は民族自決の原則と独立運動の高まりによって植民地体制は解体し、1960年には多数のアフリカ諸国が独立した(「アフリカの年」)。政治的支配を伴わない経済的従属関係を批判的に指す語として、新植民地主義や経済的帝国主義といった用法もある。
1915年(大正4年)、第一次世界大戦中に日本が中国(袁世凱政権)に突きつけた5号21か条にわたる要求。山東省のドイツ権益の継承・南満洲権益の延長・漢冶萍公司の合弁・中国沿岸の不割譲・政治・財政・軍事顧問への日本人採用など、中国の半植民地化を目指す内容だった。中国国内で「国恥記念日」(5月9日)として強烈な反日感情を生み、五・四運動(1919年)・抗日運動の遠因となった。日本は国際社会からの批判も受け、第5号の要求を撤回した。
宗主国から送り込まれた入植者が先住民の土地を恒久的に奪取し、先住民社会そのものを置換ないし消去しようとする形態の植民地主義。単なる資源搾取・遠隔統治を目的とする「搾取型植民地主義」と区別される概念で、オーストラリア・ニュージーランド・北米・南アフリカ・アルジェリア・パレスチナなどが典型例とされる。学術概念としては1990〜2000年代にパトリック・ウルフらオーストラリア学派によって発展し、「土地への論理(logic of elimination)」をキー概念として、先住民絶滅・強制移住・文化同化・土地登記制度の操作といった継続的メカニズムを分析する。タスマニア・アボリジニの絶滅(1803〜1876)、アメリカ先住民の涙の道(1830)、コンゴ自由国(1885〜1908)、ヘレロ・ナマ虐殺(1904〜1908)、南アフリカのアパルトヘイト(1948〜1994)は、入植者植民地主義がジェノサイドや制度的抑圧に至った代表的事例。現在のパレスチナ問題や各地の先住民の主権回復運動においても分析枠組みとして用いられ、「脱植民地化(decolonization)」議論の中核概念となっている。
1871年(明治4年)7月に明治政府が断行した、全国約300の藩を廃止して府・県に統一した大改革。版籍奉還(1869年・大名が土地と人民を天皇に返上)で形式的な改革を進めた後、薩摩・長州・土佐三藩の「御親兵」を背景に強行した。旧藩主は「知藩事」から解任されて東京居住を命じられ、中央から府知事・県令が派遣された。これにより江戸幕藩体制が完全に終焉し、中央集権国家の基盤が確立された。士族の秩禄(家禄・賞典禄)問題が新たな課題となった。
明治政府において薩摩・長州・土佐・肥前の倒幕四藩出身者が政治の要職を独占した体制。倒幕に功績を持つ薩摩(大久保利通・西郷隆盛・伊藤博文ら)と長州(木戸孝允・山県有朋ら)の出身者が特に重用された。自由民権運動は藩閥政治の打破と議会開設を要求した。大日本帝国憲法発布(1889年)・帝国議会開設(1890年)後も実権は元老と藩閥が握り続けた。第一次世界大戦後に「平民宰相」原敬が本格的政党政治を樹立するまで藩閥支配が続いた。
明治政府が推進した「国を豊かにし、軍事力を強化する」という国家政策スローガン。1868年の明治維新後、欧米列強の植民地化を防ぎ日本を近代国家として確立するために採用された。殖産興業(官営工場設立・鉄道建設・技術者招聘)と徴兵令(1873年・国民皆兵制)の二本柱で推進された。日清戦争(1894〜95年)・日露戦争(1904〜05年)での勝利でこの政策の「成果」が現れたが、その後の軍国主義化・対外膨張政策への道も開いた。
1925年(大正14年)、加藤高明内閣が成立させた、満25歳以上の全男性に選挙権を付与する法律。明治以来の制限選挙(納税額による資格制限)を廃止し、有権者数が約400万人から約1,241万人に急増した。大正デモクラシーの政治的成果の一つ。ただし同年に「治安維持法」も制定され、普通選挙の権利拡大と社会運動への弾圧が同時に進んだ(「飴と鞭」)。女性の参政権は戦後1945年まで認められなかった。
明治初期(1870年代)に推進された西洋文明の積極的導入政策と社会変容。衣食住・学問・制度のあらゆる面で西洋化が進められ、断髪・洋服・牛肉食(牛鍋ブーム)・太陽暦採用・郵便制度・鉄道開業(1872年新橋〜横浜間)などが象徴。福沢諭吉の「学問のすすめ」(1872年)は「一身独立して一国独立す」と啓蒙思想を広めた。一方で伝統文化軽視・急速な変化への反発も生じ、後に国粋主義的反動も起きた。「和魂洋才」という折衷的精神の模索がこの時代の特徴。
自国民をジェノサイド・戦争犯罪・民族浄化・人道に対する犯罪の4類型から保護する責任は、第一義的には各国家にあるが、国家がその責任を果たせない場合は国際社会が介入の責任を負うとする国際規範。1994年のルワンダ虐殺で国連PKO部隊(UNAMIR)が100万人近い犠牲者を防げなかった失敗と、1995年のスレブレニツァ虐殺における国連保護軍(UNPROFOR)の無力に対する反省を背景として、2001年にカナダ主導の「介入と国家主権に関する国際委員会(ICISS)」が報告書『The Responsibility to Protect』で提唱した。2005年の国連世界首脳会議で全会一致採択、国連総会決議60/1(第138〜139項)に明記された。①予防責任、②対応責任、③再建責任の三層からなり、軍事介入は外交・経済制裁など非強制手段が尽きた最終手段と位置づけられる。2011年のリビア内戦では国連安保理決議1973で初めて明示的に発動され、NATOの軍事介入につながった。一方で、その後のシリア内戦、ロヒンギャ、ダルフール継続、ウクライナ侵攻などではロシア・中国の拒否権により発動が阻まれ、「政治的現実に左右される概念」との批判も強い。
犯人が特定・逮捕されないまま捜査が長期化または終了した刑事事件。日本では公訴時効(殺人は2010年に撤廃)の成立により捜査が事実上終了するケースが多い。三億円事件やグリコ・森永事件、世田谷一家殺害事件などが代表例。近年ではDNA鑑定技術の進歩により、数十年前の事件が解決に至る例も増えている。
特定民族・宗教・文化集団を特定地域から強制的に追放・除去する政策および実践。1990年代のユーゴスラビア紛争で国連報告書が公式用語として採用して以降、国際法・人道法の中心概念となった。ジェノサイド条約が定義する「集団殺害」よりも広い概念で、殺害に至らない強制移住・家屋破壊・恐怖による逃亡の誘発なども含む。国際刑事裁判所(ICC)ローマ規程では「人道に対する犯罪」の一類型として起訴対象となる(独立した犯罪類型としては明記されていない)。歴史的主要事例として、オスマン帝国によるアルメニア人・ポントス人追放(1915〜1923)、スターリンによるチェチェン・クリミアタタール等の民族強制移住(1941〜1944)、旧ユーゴのスレブレニツァ虐殺(1995)、ダルフール紛争(2003〜)、ミャンマー軍によるロヒンギャ強制追放(2017〜)などが挙げられる。学術的にはジェノサイドとの境界線が曖昧で、被害者側・加害者側の呼称の政治学が常に問題となる。
1868年を中心に行われた日本の政治的・社会的大変革。江戸幕府が倒れ、天皇を中心とする新政府が成立。版籍奉還・廃藩置県により中央集権国家を確立し、四民平等・徴兵令・学制など近代化政策を推進した。西洋の制度・技術を積極的に導入し、日本は急速に近代国家への道を歩んだ。アジアにおける近代化の最も成功した事例の一つとされる。
1947年頃から1991年のソ連崩壊まで続いた、アメリカを中心とする西側陣営(資本主義・自由主義)とソ連を中心とする東側陣営(社会主義・共産主義)の対立構造。直接の軍事衝突は避けつつも、核軍拡競争、宇宙開発競争、代理戦争(朝鮮戦争・ベトナム戦争)、ベルリンの壁など、世界を二分する緊張状態が約45年間続いた。
実際には罪を犯していない人が有罪とされること。日本では帝銀事件の平沢貞通、免田事件、島田事件、松山事件、財田川事件の死刑囚4人が再審無罪となった例がある。近年では足利事件や東電OL殺人事件でDNA再鑑定により冤罪が証明された。取り調べの可視化や証拠開示制度の拡充が求められている。