登録されている歴史上の人物 385名を時代別に紹介します。各人物をクリックすると詳細ページへ移動します。
ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教に共通する「信仰の父」と位置づけられる族長。ヘブライ語聖書『創世記』によれば、メソポタミア南部のウル(現イラク)に生まれ、神の召命を受けて妻サラと甥ロトを連れてカナン(現パレスチナ)へ旅立った。一神教の出発点となる神との契約を結び、息子イサクを捧げようとした逸話は三宗教の信仰の核心となった。アラブ人の祖とされる息子イシュマエル、ユダヤ人の祖とされる息子イサクを通じ、中東の系譜上の始祖と伝えられる。
ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教の三大一神教が共通して最大級の預言者と仰ぐ、古代イスラエルの宗教的指導者。ヘブライ語聖書によれば、エジプトで奴隷状態にあったヘブライ人を率いて紅海を渡り「出エジプト」を果たし、シナイ山で神ヤハウェから十戒を授かった。律法(トーラー)の編纂者と伝えられ、最初の五書(モーセ五書)は彼に帰される。歴史学的実在性には諸説あるが、ユダヤ民族形成の核となる神話的・宗教的象徴であり続けている。

殷王朝末期(紀元前11世紀ごろ)の帝辛(紂王)の妃。帝辛に寵愛され、末喜などと共に悪女の代名詞的存在として扱われる。帝辛が有蘇氏を討った際に有蘇氏が献上したのが妲己であり、己が姓、妲は字であるとしている。妲己は帝辛に寵愛され、帝辛は彼女のいうことなら何でも聞いたという。師涓に新淫の声・北鄙の舞・靡靡の楽を作らせた。賦税を厚くして鹿台に銭をたくわえ、鉅橋に粟を満たし、狗馬・奇物を収めて宮室いっぱいにした。沙丘の苑台を拡張して、野獣蜚鳥をその中に置いた。鬼神をあなどり、沙丘に大勢の者を集めて楽しみ戯れた。酒をそそいで池とし、肉を掛けて林とし(酒池肉林)、男女を裸にして互いに追いかけさせ、長夜の飲をなした。
古代イスラエル統一王国の第2代国王(在位 紀元前1010年頃〜970年頃)。ヘブライ語聖書によれば、ベツレヘムの羊飼いの少年時代にペリシテ人の巨人ゴリアテを投石で倒した逸話で知られる。サウル王の死後に王位に就き、エルサレムを征服して首都と定め、以後「ダビデの町」と呼ばれた。詩編の多くの作者とされ、竪琴を奏でる詩人・戦士王として後世の芸術に繰り返し描かれた。メシア(救世主)はダビデの子孫から生まれるとの予言は、ユダヤ教・キリスト教の終末観の核となった。
ダビデ王の子で、古代イスラエル統一王国の第3代国王(在位 紀元前970年頃〜931年頃)。「ソロモンの知恵」で知られ、その治世は統一王国最盛期と伝えられる。エルサレムに第一神殿を建立し、ユダヤ教の祭祀中心地を確立した。地中海・紅海交易によって莫大な富を蓄え、シバの女王の訪問伝承は旧約聖書・クルアーン・エチオピア伝承に共通して現れる。『箴言』『雅歌』『コヘレトの言葉』の著者に帰されるが、死後に王国は南北に分裂し、以後の動乱の遠因となった。

仏教の開祖。現在のネパール南部ルンビニに、釈迦族の王子として生まれた。贅沢な宮廷生活を捨て29歳で出家し、苦行と瞑想を経て35歳頃にブッダガヤの菩提樹の下で悟り(正覚)を開いた。以後約45年間にわたりインド各地を歩いて「四諦(苦・集・滅・道)」「八正道」「中道」を説き続けた。カースト制度を否定する平等主義、輪廻からの解脱(涅槃)、非暴力(アヒンサー)を核とする教えは、当時のバラモン教の権威に挑戦するものだった。80歳でクシナガラにて大般涅槃(入滅)。没後その教えは第一結集で集成され、上座部・大乗と分かれながらアジア全域に広まった。現在仏教は世界で約5億人の信者を持つ。
仏教の開祖。シャカ族の王子としてルンビニー(現ネパール)に生まれたが、生老病死に苦しむ人々を目の当たりにして29歳で出家。6年の苦行ののちブッダガヤの菩提樹下で悟りを開き、「目覚めた者(ブッダ)」となった。四諦八正道を説き、カースト制を超えた僧伽を築いた。入滅後、その教えは南伝・北伝として東南アジア・中央アジア・東アジア全域に広がり、世界宗教の一つとなった。
中国・春秋時代の思想家・教育者で、儒教の創始者。仁(思いやり)・礼(社会秩序)・孝(親への敬愛)を核とする道徳哲学を説いた。弟子たちとの対話をまとめた「論語」は東アジア文化圏に計り知れない影響を与え、2500年以上にわたり政治・教育・倫理の基盤となっている。

アケメネス朝の王。一般にキュロス2世から数えて第3代とされるが、ダレイオス1世自身の言によれば第9代の王である。僭称者とされるスメルディス(ガウマータ)を排除して王位に就き、王国の全域で発生した反乱をことごとく鎮圧して、西はエジプト、トラキア地方から東はインダス川流域に至る広大な領土を統治した。
中国・春秋時代の軍事思想家。名は孫武で、呉王闔閭に仕えて軍を指揮したと伝えられる。兵法書『孫子』の著者とされ、「戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」に代表される、戦いを避けて勝つ戦略思想で知られる。全13篇からなる同書は、戦略・戦術・情報・地形・補給などを体系的に論じた現存最古級の軍事理論書であり、東アジアの兵学に決定的な影響を与えた。近代以降は欧米にも翻訳され、軍事のみならず経営やスポーツなど幅広い分野の戦略論として現代まで読み継がれている。

アギス朝のスパルタ王である。第二次ペルシャ戦役中のテルモピュライの戦いに300人のスパルタ兵士と共に参戦し、20万人以上と伝えられるペルシア軍にも互角以上に渡り合い、最期は壮絶な死を遂げた。その名声はギリシア中に轟き、スパルタ随一の英雄とされた。レオニダスの英雄的な死は、彼の名声をギリシア中に轟かせた。彼らの奮戦によってアテナイは時間を稼ぎ、サラミスの海戦でペルシア海軍に勝利することが出来たため、レオニダスは古代ギリシアを代表する英雄として讃えられ、今でもテルモピュライにはレオニダス像が聳え立っている。レオニダスと300のスパルタ兵に対する石碑も置かれ、ヘロドトスによれば「旅人よ、行きて伝えよ、ラケダイモンの人々に。我等かのことばに従いてここに伏すと」(ラケダイモンはスパルタのこと)と唱われたとされている。また、死後においてもレオニダスは決定的な役割を果たした。スパルタの王族パウサニアスは、遠征中の奴隷反乱を危惧し、プラタイアに軍を送るか迷っていた。そこで「レオニダスの仇を討て」という神託を得て、レオニダスの仇討ちのためにペルシア全軍と戦う決意を固めた。プラタイアの戦いでは10,000のスパルタ重装歩兵が動員され、30万と伝えられるペルシア全軍をスパルタ軍だけで打ち破り、ペルシア帝国の野望を打ち砕いた。この戦いでギリシアは侵略の憂き目から解放され、ペルシア帝国はギリシア征服を断念せざるを得なくなった。
古代アテナイの政治家・将軍。アテナイ民主制の黄金期を主導し、パルテノン神殿をはじめとするアクロポリスの建造事業を推進した。デロス同盟の盟主としてアテナイの海上覇権を確立。ペロポネソス戦争の開戦時にアテナイを指導したが、疫病(アテナイのペスト)により死去した。
戦国時代の思想家で、孔子の孫・子思の門流に学び儒家思想を体系化した。人には生まれつき惻隠・羞悪・辞譲・是非の四端が備わり、仁義礼智に育つという性善説を唱え、覇道を排して仁政・王道を諸侯に説いて回った。主著『孟子』は後に朱熹によって四書に位置づけられ、中国・朝鮮・日本の前近代知識人の必読書となり、東アジア倫理思想の骨格をなす。

通称アレクサンドロス大王。ペルシア語ではイスカンダル。古代ギリシャのアルゲアス朝マケドニア王国の王。また、コリントス同盟の盟主、エジプトのファラオも兼ねた。ヘラクレスとアキレウスを祖に持つとされ、ギリシアにおける最高の家系的栄誉とともに生まれた。20歳のとき、父ピリッポス2世から王位を継承した。その治世の多くをアジアや北アフリカにおける戦役(東方遠征)に費やし、30歳までにギリシャからインド北西にまたがる大帝国を建設した。ダレイオス3世の治めるアケメネス朝を制圧し、領土とした。戦略・戦術の天才であり、少年の如き野心を持っていた。戦えば決して負けることはなく、確かな戦略で領地を急速に拡大し、異民族統治においては独創的な方針をとった。広大な領域に同一通貨を広めることで、両替の手間を省き、迅速な商取引を実現した。アレクサンドロス以降、世界は一変した。
マウリヤ朝第3代皇帝。即位後、カリンガ国(現オリッサ州)への征服戦争で10万人以上の死者を出したことに深く悔い、仏教に帰依した。以後「ダルマ(法)」による統治を宣言し、戦争放棄・動物保護・民への福祉を実践した。インド亜大陸全土に石柱や磨崖勅令を建て、その精神を刻んだ。セイロン(スリランカ)に息子・娘を派遣して仏教を伝道し、東南アジアへの仏教普及の礎を築いた。インドの国旗中央に描かれる「アショーカの法輪」はその遺産を今に伝える。

中国史上初の統一王朝・秦の初代皇帝(在位:紀元前221年〜紀元前210年)。戦国七雄を統一し、「皇帝」の称号を初めて用いた。郡県制の施行、度量衡・文字・貨幣の統一、万里の長城の建設など、中央集権国家の基礎を築いた。一方で焚書坑儒に代表される言論弾圧も行った。
カルタゴの将軍。第一次ポエニ戦争で戦った将軍ハミルカル・バルカの子として紀元前247年頃に生まれ、父と義兄がイベリア半島に築いた勢力を紀元前221年に継承した。紀元前219年にローマと結ぶ都市サグントゥムを攻略し、翌紀元前218年に第二次ポエニ戦争が始まると、象を含む軍を率いてピレネー山脈とアルプスを越えて北イタリアに侵入。トレビア川、トラシメヌス湖の戦いに続き、紀元前216年のカンナエの戦いでは両翼から包囲する戦術でローマ軍に未曾有の打撃を与えた。しかしローマ市そのものの攻略には至らず、イタリア諸都市を離反させて戦力を削る長期戦は決定的な成果を生まなかった。紀元前203年に本国防衛のため帰還し、翌紀元前202年のザマの戦いで大スキピオ(アフリカヌス)に敗れ、カルタゴは講和を受け入れて西地中海の覇権を失った。戦後は本国で政治にあたったのち東方へ亡命し、セレウコス朝のアンティオコス3世のもとなどを頼り、紀元前183年頃に小アジアのビテュニアで没した。用兵の巧みさは後世の軍事史でも繰り返し研究されている。
共和政ローマ末期の政治家・軍人。ガリア遠征で名声を得た後、ルビコン川を渡ってローマに進軍し、終身独裁官に就任。暦法改革(ユリウス暦)でも知られる。元老院議員らの共謀により、紀元前44年3月15日に暗殺された。「ブルータス、お前もか」の言葉は後世の創作だが広く知られる。

古代エジプト、プトレマイオス朝のファラオ(女王)。普通クレオパトラと言えば彼女を指し、プトレマイオス朝の最後の女王で、ガイウス・ユリウス・カエサルやマルクス・アントニウスらとのロマンスで知られる。プトレマイオス朝自体がアレクサンドロス3世の部下プトレマイオス1世による支配から始まったため、クレオパトラもギリシア系である。父は紀元前80年 - 紀元前58年および紀元前55年 - 紀元前51年のファラオであるプトレマイオス12世(アウレテス)。紀元前51年、クレオパトラが18歳の時に父が逝去すると、父の遺言によって弟のプトレマイオス13世と共同で王位に就いた。
ローマ帝国の初代皇帝(在位:紀元前27年〜紀元14年)。カエサルの姪の子で、その養子として後継者に指名され、当初はオクタウィアヌスと呼ばれた。カエサル暗殺後はアントニウス・レピドゥスと第二回三頭政治を組んで政敵を排し、やがてアントニウスと対立、紀元前31年のアクティウムの海戦でアントニウスとクレオパトラの軍を破って地中海世界の唯一の支配者となった。紀元前27年、元老院から「アウグストゥス(尊厳ある者)」の称号を受け、共和政の制度と伝統を尊重する形をとりながら、軍事・財政・属州統治の実権を一手に握る元首政(プリンキパトゥス)を築いた。属州の再編、常備軍と近衛隊の整備、街道や水道の建設、ローマ市の大規模な改造を進め、その治世から約200年間の比較的安定した時代は「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」と呼ばれる。ウェルギリウスやホラティウスらが活躍したラテン文学の黄金期も彼の時代にあたる。
古代ペルシアの宗教家で、ゾロアスター教(拝火教)の開祖。その正確な生没年や活動地域は定かでなく、紀元前数世紀から千年以上前まで諸説ある。最高神アフラ・マズダーを善の根源として崇め、世界を善と悪の二大原理の闘争として捉える善悪二元論の宗教体系を打ち立てた。彼の言葉を伝えるとされる賛歌「ガーサー」は、教典『アヴェスター』の中核をなす最古の部分とされる。火を神聖視するその教えは古代ペルシア帝国で広く信仰され、死後の審判や救世主の観念などを通じて、後のユダヤ教・キリスト教・イスラム教にも影響を与えたと考えられている。
後漢(東漢)の建国者で初代皇帝(在位25〜57年)。本名は劉秀。前漢の皇族の血を引き、王莽の新の末期に各地で蜂起が相次ぐ中で挙兵した。25年に即位して漢王朝を再興し、赤眉の乱など各地の群雄を平定して天下を再統一、洛陽を都とした。苛烈な統治を避ける「柔よく剛を制す」の方針で知られ、儒教を重んじて文治政治を進め、戦乱で疲弊した社会の安定と復興に努めた。倭の奴国の使者に金印「漢委奴国王」を授けたのもこの治世のこととされ、日本古代史とも関わりの深い皇帝である。
イエス・キリストの十二使徒の筆頭。元の名はシモン。ガリラヤ湖の漁師であったが、イエスから「人間をとる漁師」として召命された。イエスの死と復活の後、エルサレムの初期キリスト教教団の指導者となり、後にローマに赴いて宣教活動を行ったとされる。ネロ帝の迫害下で逆さ十字架にかけられて殉教したと伝えられる。カトリック教会においては初代ローマ教皇とみなされており、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂は彼の墓所に建てられている。
北欧神話における最高神オーディンを長とする神々の系統のことである。アース神族は、世界の中心アースガルズに住む。神々はしばしば巨人の脅威にさらされるが、その度にトールの剛勇やロキの頭脳で難を逃れる。世界終末戦争ラグナロクでは死力を尽くして戦うが、世界と共に滅ぶ事となる。
ギリシア神話の女性。アイギナ島の名の由来とされる。アイギーナは河神アーソーポスとメトーペーの娘の1人で、ピンダロスによればテーベーと双子の姉妹、アーソーポスの末の娘である。ゼウスとの間にアイアコスを、アクトールとの間にメノイティオスを生んだ。アイギーナはゼウスにさらわれ、プリウースからオイノーネー島に連れ去られた。父アーソーポスはアイギーナを探してコリントスを訪れ、シーシュポスからアイギーナの居場所を聞き出して後を追いかけた。しかしゼウスは雷を投げつけてアーソーポスを追い払った。アイギーナはオイノーネー島でゼウスに愛され、アイアコスを生んだ。そこでオイノーネー島はアイギーナ島と呼ばれるよ…
ケルト神話の神ヌアザの別名で、銀の腕を象徴する尊称。戦闘で失われた腕を銀製のものに置き換えられた指導者神として、破壊からの修復と再生の力、そして不変と強固な復興性を象徴として高く評価されている存在である。
北欧神話において神々に創造された最初の人間の男。オーディン、ヴィリ、ヴェーによって創造された。拾ってきた流木に人間の形を与え、オーディンはそれに息吹を与え、ヴィリは感情と知性を与え、ヴェーは言葉と感覚を与えた。
ギリシア神話の星空の神である。その名は「星の男」の意。ティーターンのクレイオスとポントスの娘エウリュビアーの子で、パラース、ペルセースと兄弟。エーオースとの間に、西風の神ゼピュロス、北風の神ボレアース、南風の神ノトス、さらに明けの明星エーオースポロスと星々をもうけた。
知恵、芸術、工芸、戦略を司るギリシア神話の女神で、オリュンポス十二神の一柱である。アルテミス、ヘスティアーと同じく処女神である。アテーナーは、古くからギリシアの地にあった城塞都市にあって、「都市の守護女神」として崇拝されて来た。崇拝の中心はアテーナイである。あらゆるものを防ぐ防具「アイギス」を持つ。
エジプト神話における創造の神。ヘリオポリス九柱神に数えられる。アトゥムは、原初の水「ヌン」より生まれ、 他の神々を生み出した存在。自慰によって大気の神・シューと、湿気の女神テフヌトを生んだ。独力で他の神々を生み出したため両性具有の神とされる。 基本的には人間の姿をしており、二重王冠を被り、アンクとウァス杖を手にした姿で描かれる。
エジプト神話に登場する冥界の神で、リコポリスの守護神。エジプトの中でも比較的に古い時期から崇拝されていたミイラづくりの神であり、アフリカンゴールデンウルフの頭部を持つ半獣もしくはオオカミそのものの姿で描かれた。これは古代エジプトにおいて、墓場の周囲を徘徊する犬またはオオカミの様子を見て、死者を守ってくれているのだと考えられたからである。また、そもそもアヌビスはセトのモデルとなった動物と同じく、オオカミや犬と似てはいるが現在は絶滅してしまった別のイヌ科の動物や想像上の動物がモデルであるとする説もある。その身体はミイラ製造時に防腐処理のために遺体にタールを塗りこみ黒くなるのに関連して真っ黒だった。
ギリシャ神話の四風の神々の総称。北風ボレアス、南風ノトス、東風エウロス、西風ゼピュロスが四大風神として知られており、それぞれ異なる季節と特性を持つ。古代ギリシャ社会で気象現象の神格化として重視された。
シュメール神話・アッカド神話において存在していたと伝えられる、地底の淡水のこと。湖・泉・川・井戸その他の淡水は、アプスが源であると考えられていた。バビロニア創世記叙事詩の「エヌマ・エリシュ」においてのみ、神として描かれる。淡水から生じた神であり、塩水から生じた女神ティアマトの伴侶である。
ゾロアスター教の最高神。宗教画などでは、有翼光輪を背景にした王者の姿で表される。その名は「智恵ある神」を意味し、善と悪とを峻別する正義と法の神であり、最高神とされる。娘は女神アールマティ。アフラは天空、マズダーは光を指す言葉であり、アフラ・マズダーは太陽神ともされる。
ギリシア神話の愛と美の女神。オリュンポス十二神の重要な一柱で、パリスの三美神審判で最高の美を評価されていた。恋愛と性、豊穣をつかさどり、戦闘における勝利ももたらす極めて多面的で強力な女神として描かれた。
ギリシア神話に登場する男神。オリュンポス十二神の一柱であり、ゼウスの息子である。詩歌や音楽などの芸能・芸術の神として名高いが、羊飼いの守護神にして光明の神でもあり、イーリアスにおいてはギリシア兵を次々と倒した「遠矢の神」であり、疫病の矢を放ち男を頓死させる神であるとともに病を払う治療神でもあり、神託を授ける予言の神としての側面も持つなど、付与された性格は多岐に亘る。もとは小アジアに起源をもつ神格で、本来は繁茂する植物の精霊神から転じて牧畜を司る神となったという説や、北方の遊牧民に起源を求める説など、アポローンの出自については諸説あり、複数の神格の習合を経て成立したものとも考えられている。…
日本神話で天上の高天原に住む神々の分類。国津神に対置される重要な概念で、宇宙的秩序、創造的力、統治権を象徴する。天照大神や他の主要神々を含み、天孫降臨によって地上を統治する神聖な権威として位置づけられている。

日本神話の最高神であり太陽神。伊勢神宮に祀られる皇祖神。弟スサノオの乱暴に怒って天岩戸に隠れ、世界を闇に包んだが、八百万の神々の策略により再び姿を現した。天孫降臨では孫のニニギノミコトに三種の神器を授け、地上の統治を命じた。日本の天皇家の祖先とされる。
日本神話の重要な神で、祭祀職の祖。天照大神が岩屋に隠れた際、神聖な祝詞を奏して復帰を促す。天孫降臨の五伴緒神の一として地上統治に従事し、後代、中臣氏・藤原氏の祖神として歴史的に極めて重要視されている。
ゾロアスター教において最高神アフラ・マズダーに従う七人の善神。その名は「不滅の聖性」を意味する。なお、スプンタ・マンユはアフラ・マズダーと同一視されることがあり、その場合は六人と数えられる。極めて抽象的、教理的な神格のため、中世以降はあまり信仰されなくなり、ゾロアスター教においての信仰は、ヤザタに取って代わられた。アムシャ・スプンタに属する七柱の神は以下とされる。・スプンタ・マンユ(Spənta Mainyu)。・ウォフ・マナフ(Vohu Manah)。・アシャ(・ワヒシュタ)(Aša Vahišta)。・(スプンタ・)アールマティ(Spənta Ārmaiti)。・クシャスラ(フシャス…
ウェールズ神話の重要な女神。名前は「銀の輪」を象徴し、天体の循環、運命、女性らしさと性の神聖さを司る。息子ルーを儀式的に産み、独立した強力な神性と自由意志を持つ独特な女性神として高く評価されている存在である。
ギリシア神話に登場する100の目をもつ(あるいは体に多くの目をそなえた)巨人である。アゲーノールの息子。普見者(パノプテース)アルゴスと言われる。全身に100の目を持ち、しかもそれらの目は交代で眠るため、アルゴス自身は常に目覚めている(別の伝承では、背中に第三の目があるとも、後頭部に二つ目があるとも言われる)。つまり、アルゴスには時間的にも空間的にも死角が無い。神々の命を受け、上半身は人間の女で腰から下は蛇の形をしていた怪物エキドナやアルカディア地方を荒した雄牛の怪物を退治するなど、多くの手柄をあげた。ゼウスの正妻ヘーラーの命令で、ゼウスの愛人で牝牛に変身したイーオーの見張りをしていたと…
ギリシア神話の船アルゴー号の乗組員の総称。イアソンに率いられ、黄金の羊毛を求めて冒険した勇敢な英雄たち。ヘルクレスやカストル、ポルックスなど著名な英雄を多く含む。古代ギリシャ社会の理想的な英雄像を体現。
ギリシア神話に登場する狩猟・貞潔の女神である。双子の弟アポローンがヘーリオスと同一視され太陽神とされたように、後にセレーネーと同一視され月の女神とされた。また、闇の女神ヘカテーと同一視され、三通りに姿を変えるものだとも考えられた。オリュンポス十二神の一柱とされる。アポローンとは双生児とされている。アテーナー、ヘスティアーと同様、処女神である。
ギリシア神話に登場する神で、戦を司る。ゼウスとヘーラーの息子。オリュンポス十二神の一柱。本来は戦闘時の狂乱を神格化したもので、恩恵をもたらす神というより荒ぶる神として畏怖された。戦争における栄誉や計略を表すアテーナーに対して、戦場での狂乱と破壊の側面を表す。
ギリシア神話に登場する女性で、エチオピア王ケーペウスと王妃カシオペアとの間に生まれた王女。ペルセウスの妻となる。神に勝る美貌を持つとして、怒った神々により怪物(ケートス)の生贄とされようとして、波の打ち寄せる岩に鎖で縛りつけられた。そこをペルセウスが通りがかり、救出した。
ゾロアスター教に登場する悪神である。善悪二元論のゾロアスター教において、最高善とする神アフラ・マズダーに対抗し、絶対悪として表される。ヴェンディダード (Vendidad) 第1章によると、アフラ・マズダーが光の世界を創造するとすかさずアンラ・マンユは対抗すべく冬、病気、悪などの16の災難を創造したという。アンラ・マンユはさらに、アフラ・マズダが創造した世界を破壊し被造物を殺戮すべく、悪竜アジ・ダハーカを生み出した。
ギリシア神話に登場する人物。ラピテース族の王であるプレギュアースの子。神罰を受けて、火焔車に縛り付けられて永遠に回転するという「イクシオンの車輪」で知られる。血縁の人間を殺した最初の人物とされている。神々との食事会に招待されたイクシオンはゼウスの妻ヘラを誘惑しようとする。それを知ったゼウスによりタルタロスに送られ、拷問にかけられ続けられている。
エジプト神話における豊穣の女神。ヘリオポリス九柱神に数えられる。大地の神ゲブを父に、天空の女神ヌトを母に持つ。二柱の間に生まれた四柱の神々の次姉もしくは三姉とされる。冥界の神オシリスは兄、戦いの神セトは兄もしくは弟、葬祭の女神ネフティスは妹である。 配偶神は兄オシリス。オシリスと習合した豊穣の神ミンも配偶神とすることがある。オシリスとの間に天空の神ホルスを成し、オシリスとネフティスの間に生まれた不義の子アヌビスを養子として育てた。 また、息子ホルスを夫としたとする神話もあり、ホルスの4人の息子を成したとされる。 ホルスの4人の息子では、死者の肝臓を守る神イムセティを守護する。 司る神性は…
シュメール神話に登場する豊穣神イナンナの系譜と地母神の血を引く、メソポタミア神話において広く尊崇された愛と美の女神。戦・豊穣・金星・王権など多くの神性を司る。神としての序列が非常に高く、神々の始祖アヌ・神々の指導者エンリル・水神エアを3柱とする、シュメールにおける最上位の神々に匹敵するほどの信仰と権限を得た特異な存在。アッカド語では古くはエシュタル、後にイシュタルと呼ばれるようになった。この語は元来は金星を意味し、明けの明星としては男神、宵の明星としては女神であったが、最終的に1つの女神として習合された。
ヒンドゥー教・仏教における天界の王。ヒンドゥー教ではインドラ(Indra)として知られる雷神・嵐の神であり、ヴェーダ時代(紀元前1500年頃〜)には最高神として崇拝された。雷霆の武器「ヴァジュラ(金剛杵)」を持ち、悪の竜ヴリトラを倒して世界に雨をもたらした英雄神。仏教に取り込まれると「忉利天(三十三天)」の主宰者として再定義され、仏法の守護者へと性格が変化した。釈迦の前世を語る「ジャータカ(本生譚)」では帝釈天が人間を試す場面が繰り返し登場する。日本では仏法守護の神として奈良・東大寺や各地の寺院に祀られ、「帝釈天参り」で知られる葛飾柴又(東京)の題経寺が特に有名。漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』や映画「男はつらいよ」の舞台として現代日本でも親しまれる。
北欧神話において、戦場で生きる者と死ぬ者を定める女性、およびその軍団のこと。「ワルキューレ」とも呼ぶ。戦場で死んだ者の半分をオーディンの治める死者の館ヴァルホルに連れていく役割を担う。ヴァルハラでは、死んだ戦士たちはラグナロクに備える兵士エインヘリャルとなるが、ワルキューレは彼らに蜜酒を与える給仕にもなる。またワルキューレは英雄をはじめとする人間たちの恋人としても登場し、そのような場合は王族の娘として描かれることもある。ワタリガラスを伴って描かれたり、また白鳥や馬と結び付けられることもある。
ローマ神話の美と恋の女神ウェヌス(Venus)の英語表記。古代ローマでは特に重要視され、建国の英雄アエネアスの母とされた。美と豊穣、そして戦闘における勝利をもたらす多面的で強力な女神として深く崇拝された。
北欧神話のアース神族で、オーディンの次弟。兄弟ウィとオーディンと共に巨人イミルを殺害し、その遺骨から大地を、血から海を、骨から山々を創造したとされる。生命と生命力を与える神として古くから信仰されていた。
北欧神話のアース神族で、オーディンの三弟。ヴィとオーディンとともに巨人イミルを殺害し、世界創造の大業に関わったとされる。知恵と言葉の力を司り、特に詩人や吟唱者に恩恵を与える神として古い伝承で信じられていた。
ローマ神話における風の神たちをウェンティといい、ギリシア神話のアネモイと同一視された。アクィロー(アキロン。Aquilo, Aquilon)が北風を、アウステル (Auster) が南風を、ファウォーニウス(ファヴォーニウス、ファボニウス。Favonius)が西風を、ウルトゥルヌス(ヴルトゥルヌス。Vulturnus)が東風を司る。
神として祭られた氏族の先祖。藤原氏の天児屋命 (あまのこやねのみこと) 、斎部 (いんべ) 氏の天太玉命 (あまのふとだまのみこと) など。その氏族にゆかりのある神。また、その神を祭った神社。平氏の厳島 (いつくしま) 明神、源氏の八幡宮など。住んでいる土地の人々を守護する神。産土神 (うぶすながみ) 。鎮守神と同一視されることが多い。
日本神話における出生地の守護神で、その土地で生まれた者の生涯全体を守護するとされる。民間信仰で特に重要視され、人生の安全と幸福を導く存在とされた。近世以降、氏神や鎮守神との区別が曖昧となり、地域の守護者として概念が融合した。
北欧神話における「戦死した勇者の魂」という意味。彼らは、ヴァルキューレによってヴァルハラの館に集められる。ラグナロクの際に、オーディンら神々と共に巨人たちと戦うために、彼らは毎日朝から互いに殺し合い、戦士としての腕を磨いている。その戦いで死んだものは、夕方になると皆生き返り、傷ついた者も同じく皆回復して、夜には盛大な宴を行う。
ギリシア神話の女神で、9柱の文芸の女神ムーサ(ミューズ)たちの一人である。抒情詩のムーサ(ミューズ)。「喜ばしい女」という意味。ゼウスとムネーモシュネーの娘であり、カリオペー、クレイオー、メルポメネー、エラトー、テルプシコラー、タレイア、ポリュムニアー、ウーラニアーと姉妹。
ギリシア神話に登場する森の木のニンフである。オルフェウスと結婚するが、新婚早々アリスタイオスに襲われ逃げる最中に毒蛇に噛まれ死亡。エウリュディケを深く愛するオルフェウスが、冥府の神ハデスとその妻ペルセポネに懇願し「冥府から抜け出すまでの間、決して後ろを振り返ってはならない」という条件で地上に戻る事を許されるが、その帰途、もうすぐで冥府から抜け出すという直前でハデスとの条件を破り、振り向いてエウリュディケを見てしまったため冥府に連れ戻された。
ギリシア神話の東風の神。温暖で湿った心地よい風をもたらしていた。美術では逆さまの壺から水を注ぐ姿で表現され、雨と豊穣をもたらす重要な神として描かれた。四大風神の中では春から初夏の季節を象徴する存在であった。
ギリシア神話に登場する暁の女神である。その名は古典ギリシア語で「暁」を意味し、暁の神格化である。ティーターンの系譜に属し、様々な恋の物語が彼女をめぐって存在する。聖鳥、聖虫は雄鶏、蝉。ティーターンであるヒュペリーオーンとテイアー女神のあいだに生まれた。兄弟には、同じく自然現象や天体の神格化と言える、ヘーリオス(太陽)とセレーネー(月)がいる。同じくティーターンの系譜にあるアストライオスとの間で、三柱のアネモイ(風)、すなわちゼピュロス(西風・春風)、ボレアース(北風)、ノトス(南風)、そしてすべての星々を生んだとされる
北欧神話に登場する神の名前である。海の神であるエーギルは波飛沫を思わせる白髪・白髭の姿をしているといわれる。 船に噛みついて破壊することがあり、詩では「エーギルのあぎと」という表現もあるという。戦で死んだ者がオーディンの元へ連れていかれるのなら、海で溺れ死んだ者はこのエーギルの元へ連れていかれるという。エーギルはアース神族のために酒宴を催すなど神々に近い立場にあるが、所属するのは巨人族である。しかしラグナロクの際に神々と戦うことはないようである。北欧神話の海神には他にニョルズがいるが、ニョルズはいわば港湾の神であり、人間の海にまつわる活動に関係している。対してエーギルは外海におり、人間に…
エジプト神話の中のヘリオポリス創世神話に関わる九柱の神と女神。「アトゥム」「シュー」「テフヌト」「ゲブ」「ヌト」「オシリス」「イシス」「セト」「ネフティス」とされている。「ラー」「トト」「大ホルス」「アメン=ラー」「ホルス」などが入れ替わる場合もある。
ギリシア語で「九個一組」を意味し、エジプト神話の九柱の神々の集合を指す。ラーやゲブ、オシリスなど主要なエジプト神を含む。古代エジプトの宗教体系の最も中核的な要素であり、神々の集会や関係性を表現した体系。
北欧神話において神々に創造された最初の人間の女。オーディン、ヴィリ、ヴェーによって創造された。拾ってきた流木に人間の形を与え、オーディンはそれに息吹を与え、ヴィリは感情と知性を与え、ヴェーは言葉と感覚を与えた。
北欧神話の主神にして戦争と死の神。詩文の神でもあり吟遊詩人のパトロンでもある。魔術に長け、知識に対し非常に貪欲な神であり、自らの目や命を代償に差し出すこともあった。オーディンの名は "oðr"(狂った、激怒した)と -inn(-の主 など)からなり、語源的には「狂気、激怒(した者)の主」を意味すると考えられる。またこうした狂気や激怒がシャーマンのトランス状態を指していると考えれば「シャーマンの主」とも解釈可能である。
古代エジプト神話の冥界の王であり豊穣の神。弟セトの謀略により殺害され、遺体を切り刻まれてナイル川に投げ込まれた。妻イシスは遺体を集めて魔法で一時的に蘇らせ、息子ホルスを身ごもった。その後冥界の王となり、死者の裁判を司る。死と復活の象徴として古代エジプト文明の信仰体系の中核を成した。
ギリシア神話において、オリュンポス山の山頂に住まうと伝えられている十二柱の神々。主神ゼウスをはじめとする男女六柱ずつの神々である。ゼウス、ヘラ、アテナ、アポロン、アフロディーテ、アレス、アルテミス、デメテル、。ヘパイストス、ヘルメス、ポセイドン、ヘスティアである。
ギリシャ神話の伝説的な詩人・音楽家で、竪琴(リュラ)の名手。トラキアの出身とされ、ムーサ(詩神)の一人カリオペの子と伝えられる。その音楽は人間だけでなく野獣や木々、岩までも魅了したという。アルゴー船の遠征に加わり、歌でセイレーンの誘惑から船員を守ったとされる。最も有名なのは妻エウリュディケをめぐる物語で、毒蛇に噛まれて死んだ妻を取り戻すため冥界へ下り、冥王ハデスを音楽で感動させて連れ帰る許しを得たが、「地上に出るまで振り返ってはならない」という条件を破ったために永遠に妻を失った。古代ギリシャでは、オルフェウスを開祖とする密儀宗教「オルペウス教」が魂の輪廻と浄化を説いた。この神話は後世の芸術に大きな影響を与え、モンテヴェルディの『オルフェオ』(1607年)をはじめ初期オペラの主要な題材となった。
ギリシア神話に登場するイリアス(トロイア)の王女である。悲劇の予言者として知られる。アポロンに愛され、アポロンの恋人になる代わりに予言能力を授かった。しかし、予言能力を授かった瞬間、アポロンが自分を捨てて去っていく未来が見えた。そのため、アポロンの愛を拒絶してしまう。これに憤慨したアポロンは、「カサンドラの予言を誰も信じないように」という呪いをかけた。イタリア語では「カサンドラ」=「不吉、破局」という意味がある。
ギリシア神話に登場する冥界の河ステュクス(憎悪)あるいはその支流アケローン川(悲嘆)の渡し守。エレボス(闇)とニュクス(夜)の息子。櫂を持ち襤褸を着た光る眼を持つ長い髭の無愛想な老人で、死者の霊を獣皮で縫い合わせた小舟で彼岸へと運んでいる。渡し賃は1オボロスとされ、古代ギリシアでは死者の口の中に1オボロス貨を含ませて弔う習慣があった。1オボロス貨を持っていない死者は後回しにされ、200年の間その周りをさまよってからようやく渡ることができたという。

劉備の義弟。張飛と共に「万人敵」と称された豪傑。曹操に一時降伏して客将となるも、顔良を討つなど義理を果たして劉備のもとへ帰還。荊州の守備を任され水攻めで于禁を降すなど威名を轟かせたが、最後は孫権軍の呂蒙に背後を突かれて敗死した。後世では神格化され、「関帝」として信仰されている。
日本神話に登場する女神。ヤマタノオロチ退治の説話で登場する。大山津見神の子であるアシナヅチ・テナヅチの8人の娘の中で最後に残った娘。原文で「童女」と記述されるように、クシナダヒメ自身はまだ年端もいかぬ少女である。ヤマタノオロチの生贄にされそうになっていたところを、スサノオにより姿を変えられて櫛になる。スサノオはこの櫛を頭に挿してヤマタノオロチと戦い退治する。
日本神話で天津神に対置される神々の分類。地上に現れた神々の総称で、国土の形成と豊穣に関わり、統治権を持つ。天孫降臨の際に国を譲り、その後も地域の守護神として祭られるなど、日本建国の神話で重要な役割を果たす。
アイルランド神話における女神の一人。クリオズナとともに居る三羽の鳥は歌で病人を眠らせて治すことが出来たという。人間と恋に落ちるが、海神マナナン・マクリルがそれを許さず、大波で岸辺に居た彼女を攫い、故郷である異界「エヴヒン」に彼女を連れ戻した。
アイルランド神話の重要な三面神で、戦争・死亡・太陽を司る。古代ケルト社会で崇拝され、人身御供を含む宗教儀式と深く結びついている。戦闘での勝利と大地の豊穣をもたらす神として古くから信仰された存在である。
エジプト神話における大地の神。ヘリオポリス九柱神に数えられる。大気の神シューを父に持ち、湿気の女神テフヌトを母に持つ。配偶神は天空の女神ヌト。彼女との間に、冥界の神オシリス、豊穣の女神イシス、戦いの神セト、葬祭の女神ネフティスを成した。 妻のヌトと抱き合っている所を無理矢理シューによって引き離され、天と地とが分かれたとされる。この時、別れるのを嫌がったゲブの一部が隆起して山になったと言われる。
中国の伝説的帝王で、中華民族の始祖とされる「三皇五帝」の一人。蚩尤との涿鹿の戦いで指南車を発明して勝利し、天下を統一したとされる。文字・暦・医学・養蚕・車輪など多くの文化的発明を行ったと伝えられ、中国医学の古典「黄帝内経」にその名が残る。中国人は「炎黄子孫」(炎帝と黄帝の子孫)を自称する。
日本神話に登場する女神。古事記では本名を神阿多都比売(かむあたつひめ)、別名を木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)。神話では、日向に降臨した天照大御神の孫・邇邇芸命と、笠沙の岬で出逢い求婚される。父の大山津見神はそれを喜んで、姉の石長比売と共に差し出したが、邇邇芸命は醜い石長比売を送り返し、美しい木花之佐久夜毘売とだけ結婚した。大山津見神はこれを怒り「私が娘二人を一緒に差し上げたのは石長比売を妻にすれば天津神の御子(邇邇芸命)の命は岩のように永遠のものとなり、木花之佐久夜毘売を妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約を立てたからである。木花之佐久夜毘売だけと結婚すれば、天津神…
ゲルマン・北欧神話の伝説的英雄。古ノルド語ではシグルズと呼ばれる。巨竜ファーブニルを退治して莫大な財宝を奪い、竜の血を浴びて不死身となったとされる。ニーベルンク物語(ニーベルンゲンの歌)の中心人物として描かれ、予言された運命に翻弄される悲劇的な戦士として語り継がれている。
北欧神話の悪神ロキの妻。二人の子供がいるとされる。sigynはsiga(滴る)に関係があり、また、いましめを緩めるものとも呼ばれる。ロキはバルドルを死に追いやった、また神々を誹謗した報いとして捕縛され鉄に変わったナリの腸で拘束される。その際、スカジがロキの頭上に毒蛇を配した。したたり落ちる毒蛇の毒液をシギュンは洗桶を支えて受ける。だが、桶がいっぱいになるとシギュンはそれを捨てにその場を離れなくてはならず、離れている合間に顔へ毒液を受けるとロキは苦痛で猛烈にもがき、それが地震になるのだという。
メソポタミアの太陽神。シュメール語ではウトゥ(Ud)と呼ばれる。シャマシュはアッカド語で「太陽」、ウトゥはシュメール語で「太陽」または「日」の意。シュメールにおける原初の5都市のうち、天から与えられた4番目の都市シッパル、ほかラルサにおいても都市神を担い、両都市に神殿「エバッバル」を持つ。シュメール人は太陽を白色と見ており、エバッバルは「白く輝く神殿」の意を含み別名「白い家」とも呼ばれていた。シャマシュは正義を司る法と裁判の守護神として崇められ、「真実と正義の主」「天と地の裁き主」「運命を決する方」などの添名で呼ばれていた。バビロニアでは、シャマシュよりハンムラビ法典がハンムラビに与えら…
エジプト神話における大気の神。ヘリオポリス九柱神に数えられる。創造神アトゥムを親に持ち、アトゥムの自慰によって生まれた。配偶神は妹でもある湿気の女神テフヌト。彼女との間に大地の神ゲブと天空の女神ヌトを成した。 子供たちが抱き合っているところをシューが無理矢理引き離し、天と地とが分かれたとされる
日本書紀・古事記に記される初代天皇。天照大神の子孫で、九州の日向から東征して大和を平定し、橿原宮で即位したとされる。即位は紀元前660年とされ、この日が「建国記念の日」(2月11日)の由来。歴史学的には実在性が確認されていないが、天皇制の起源を語る最も重要な伝承上の人物。
北欧神話の登場人物の1人である。その名前は「輝く者」を意味する。豊穣神フレイの召使いであり、フレイとは幼なじみである。ゲルズから「貴方は妖精か、アース神族か、賢いヴァン神族の子か」と尋ねられるが、そのいずれも否定していることから、彼の属する種族ははっきりしないが、おそらく人間。
北欧神話に登場する巨人。名前は「黒」または「黑い者」の意。ラグナロクではムスプルの一族を率いてアスガルドを襲撃し、世界を焼き尽くすとされている。ムスペルヘイムの入口を守る炎の巨人で、世界にまだムスペルヘイムとニヴルヘイムしかなかった時代がら存在し、ムスペルヘイムの国境を守っていた。炎の剣を持っており、最後まで生き残り、すべてを焼き尽くすという。
ギリシア神話に登場する海の怪物である。上半身が人間の女性で、下半身は鳥の姿とされるが後世には魚の姿をしているとされた。海の航路上の岩礁から美しい歌声で航行中の人を惑わし、遭難や難破に遭わせる。歌声に魅惑された挙句セイレーンに喰い殺された船人たちの骨は、島に山をなしたという。
ギリシャ神話の主神。天空と雷を司り、オリュンポス十二神の頂点に立つ「神々と人間の王」である。ティタン神族のクロノスとレアの末子として生まれ、わが子に王位を奪われることを恐れて子どもたちを呑み込んだ父クロノスから母レアの機転で救われ、クレタ島の洞窟で密かに育てられたと伝えられる。成長したゼウスは兄姉を救い出し、ティタン神族との十年に及ぶ戦い(ティタノマキア)に勝利して世界の支配権を握り、くじによって兄ポセイドンに海を、ハデスに冥界を分け与え、自らは天空を治めた。正妻は女神ヘラで、アテナ・アポロン・アルテミス・ヘルメスなど多くの神々や、ヘラクレスをはじめとする英雄たちの父とされる。武器は一撃で全てを打ち砕く雷霆(ケラウノス)。聖地オリュンピアでは彼を祀る祭典として古代オリンピックが開かれ、フェイディアス作の巨大なゼウス像は「世界の七不思議」の一つに数えられた。ドドナの神託所でも崇拝され、ローマ神話のユピテルと同一視される。
エジプト神話における戦争の神。ヘリオポリス九柱神に数えられる。大地の神ゲブを父に、天空の女神ヌトを母に持つ。二柱の間に生まれた四柱の神々の次男もしくは三男であり、冥界の神オシリスを兄に、豊穣の女神イシスを姉もしくは妹、葬祭の女神ネフティスを妹に持つ。配偶神は妹でもあるネフティス、彼女との間にアヌビス、ネイトとの間にセベクを成した。オシリスとイシスの伝説において、兄オシリスを殺害し「兄殺し」の汚名を受け、オシリスとイシスとの間に出来た息子ホルスと王位を巡って争い敗れたためにセトは嫌われ者の神となり、悪神として捉えられた。セトの象徴となっている動物たちはみな、古代エジプトにおいて、人々に有害…
ギリシャ神話の西風の神。四大風神アネモイの一柱で、春と花の季節をもたらす温かく穏やかな風とされた。青年クロコスへの恋愛が原因で誤って彼を風で吹き飛ばしてしまったという悲劇的な恋愛の逸話で知られている。
ギリシア神話に登場する西風の神ゼピュロスの英語風の呼び名。風の神々(アネモイ)の一柱で、北風のボレアス、南風のノトス、東風のエウロスと兄弟にあたり、星空の神アストライオスと暁の女神エオスの子とされる。西風は春の訪れを告げる穏やかで温暖な風と考えられ、花や植物の生育と結びつけられた。花の女神クロリス(ローマ神話のフローラ)を妻とする伝承があり、ボッティチェリの絵画「プリマヴェーラ(春)」にもクロリスとともに描かれている。一方、美少年ヒュアキントスの死をめぐる神話では、嫉妬から円盤の軌道を変えてその死を招いたとも語られる。ローマ神話ではファウォニウスに相当する。
ギリシア神話の月の女神。銀色の月の車に乗って夜空を駆ける美しい女神として描かれていた。聖獣は馬、ロバ、白い牡牛とされ、ローマ神話のルーナと同一視される。凡人エンディミオンとの悲恋物語が特に有名である。
北欧神話の雷神トール(Thor)の英語表記。巨大なハンマーのミョルニルを武器とし、力と力強さの神として古代北欧の多くの戦士に崇拝されていた。アースガルドを守る重要な神で、彼の活躍は無数の伝説に登場する。
北欧神話に登場する太陽の女神。 。ムンディルファリという男が、自身の2人の子供があまりに美しいことから、娘にソール(太陽)、息子にマーニ(月)という名をつけた。神々はこれに怒り、二人を捕らえて、太陽を牽く馬車の馭者をさせた。ソールは太陽の運行を、マーニは月の運行と満ち欠けを司る。太陽は常にスコルという狼に追いかけられているため、急いで運行しなければならない。ラグナロクの時、太陽はついに狼に飲み込まれる。ソールがラグナロクの前に美しい娘を生んでおり、新しい世界ではその娘が太陽の軌道を巡るとされている
ローマ神話の眠りと睡眠の神。ラテン語で「眠り」を意味する名から付された。ギリシア神話のヒュプノに相当し、深い眠りと平和で穏やかな夢をもたらす神として古代社会全体で崇拝された。死の神タナトスの兄弟とされた。
ローマ神話の太陽神。毎日の太陽の運行を司り、世界に光と熱をもたらす強大で最も重要で神聖な神。後にギリシア神話のヘリオスと同一視され、帝政期には「ソル・インヴィクトゥス」(不敗の太陽)として特に重視された。
ギリシア神話に登場する有名な大工、工匠、職人、発明家である。名前は「巧みな工人」を意味する。斧、錘、水準器、神像などを発明したとされる。クレータ島の王ミーノースの女奴隷ナウクラテーとの間にイカロスをもうけた。アテーナイで人気を集めていたダイダロスだが、のこぎりを発明したタロースの才能を恐れて殺してしまう。結果アテーナイを追放され、クレータ島に逃げたとされている。クレータ島でミーノース王の保護下で様々な発明をしたとされる。
ギリシア神話・ローマ神話に登場する神々のこと。ウラノスの王権を簒奪したクロノスを初め、オリュンポスの神々に先行する古の神々である。巨大な体を持つとされる。狭義には、ウラノスとガイアの間に生まれた十二柱の神々の兄弟姉妹を指す。クロノスはその末弟。オケアノス、コイオス、クレイオス、ハイペリオン、イーアペトス、クロノス、テイアー、レアー、テミス、ムネーモシュネー、ポイベー、テーテュスの十二柱。「ティターン」の英語読みが「タイタン」である。
北欧神話で「昼」を意味する神。オーディンはヨトゥンヘイムに住むナルヴィという男の娘であるノートと、彼女の息子のダグを呼び、それぞれに馬車を与え世界を周り続けるように命じた。こうして昼と夜ができあがった。スキンファクシ(「光のたてがみ」の意)という馬が引く馬車に乗り、12時間ごとに大地の上を通るように天を駆けるという。スキンファクシのたてがみが発する光が、地上を照らす。
日本神話の雷と剣の神。建御名方神との相撲での力競いの伝説があり、相撲の源流とされる。出雲国の平定に中心的に携わり、軍事的な武勇と戦闘での勝利の象徴として古くから各地で信仰され崇敬される重要な神である。
ギリシア神話に登場するニュンペーである。テッサリアー地方の河神ペーネイオスの娘、あるいはアルカディア地方の河神ラードーンの娘。「ダフネ」はギリシア語で月桂樹という意味。アポローンに求愛されたダプネーが自らの身を月桂樹に変える話は、ギリシア神話の物語の中でもポピュラーであり、この物語に由来する芸術作品や風習が数多く存在している。
ギリシア神話における奈落の神であり、奈落そのものとされる。原初の神カオスより生まれた原初の神々の一柱。兄弟姉妹関係にある女神ガイアを配偶神とし、彼女との間に怪物テュポーン、エキドナをもうけた。冥界のさらに下方にある。天と地の間の距離と同じだけ、大地からさらに低い所にある。霧立ち込め、神々ですら忌み嫌う澱んだ空間。

劉備に仕えた蜀の名将。公孫瓚の配下であったが、劉備の人柄に惹かれて合流。長坂の戦いでは、曹操軍の包囲網を単騎で突破し、劉備の嫡子・阿斗(後の劉禅)を抱えて救出するという大活躍を見せた。常に冷静沈着で忠義に厚く、三国志演義でも絶大な人気を誇る。
「三国志演義」に登場する架空の美女で、中国四大美女の一人に数えられる。王允の養女であり、専横を極める董卓と猛将・呂布を仲違いさせる「連環の計」を実行。彼女の美貌と計略が、呂布による董卓暗殺の引き金となったと描かれている。

後漢末から三国時代の蜀漢の武将。字は益徳(演義では翼徳)。劉備・関羽と義兄弟の契りを結んだと伝えられ、劉備の挙兵以来つき従った。長坂の戦いでは橋上に単騎で立ちふさがり、大喝して曹操の追撃をためらわせたという逸話で名高い。益州・漢中の平定に功を立て、車騎将軍にまで昇った。豪胆で武勇に優れた一方、配下の兵卒には過酷に接する一面があり、関羽の弔い合戦に向けた出陣の準備中、恨みを抱いた部下に暗殺された。豪傑の典型として後世の物語に広く描かれている。
日本神話で国・村・城・寺院などの地理的区域を守護する神。地域社会の安全と繁栄、並びに造営物の鎮護を司る。氏神や産土神との違いは初めは明確だったが、時代とともに概念が融合し、民間信仰の中で区別が曖昧になった。
ローマ神話の狩猟、貞節と月の女神。銀の弓を持つ処女の姿が特徴である。狩猟技術を司り、夜の狩猟の守護神として知られた。ルーナと同一視されることもあり、月の女神としての側面も有する。多くの古代彫像に表現された。
メソポタミア神話における原初の海の神。淡水の神アプスと交わり、神々を生み出したとされている。彼女は原初の創造における混沌の象徴である。女神といっても、神話におけるティアマトは人の姿を模しておらず、異形の形を取った。その体躯は巨大で、「大洪水を起こす竜」と形容された。
ギリシア神話・ローマ神話に登場する神々のこと。ウラノスの王権を簒奪したクロノスを初め、オリュンポスの神々に先行する古の神々である。巨大な体を持つとされる。狭義には、ウラノスとガイアの間に生まれた十二柱の神々の兄弟姉妹を指す。クロノスはその末弟。オケアノス、コイオス、クレイオス、ハイペリオン、イーアペトス、クロノス、テイアー、レアー、テミス、ムネーモシュネー、ポイベー、テーテュスの十二柱。英語読みでは「タイタン」となる。
ギリシャ神話の英雄。アテナイ王となり、アッティカ地方を統一した。クレタの迷宮のミノタウロス退治が最大の功績として知られる。アマゾン遠征や冥府への冒険など多くの伝説に登場し、古代アテナイの象徴的英雄とされた。
エジプト神話における湿気の女神。ヘリオポリス九柱神に数えられる。創造神アトゥムを親に持ち、アトゥムの自慰によって生まれた。配偶神は兄でもある大気の神シュー。彼との間に大地の神ゲブと天空の女神ヌトを成した。雌ライオンもしくは、ライオンの頭を持った女神として描かれる。シューの妻としての伝承ばかりでテフヌト単独での伝承は、ほとんど見られない。テフヌトは天空を押し上げる夫を助け、一心同体の存在として世界の安定のために働く。
ギリシア神話の豊穣と穀物の女神。農業をつかさどり、人間に栽培法を教えたとされていた。オリュンポス十二神の重要な一柱で、娘ペルセポネがハデスに奪われたことで四季の変化がもたらされたという物語は大変に有名。
ギリシア神話に登場する女神。「合唱」「舞踊」を司る。ムーサたちの一柱。すべてのムーサたちと同じく大神ゼウスとムネーモシュネーの娘で、カリオペー、クレイオー、メルポメネー、エウテルペー、エラトー、ウーラニアー、タレイア、ポリュムニアーと姉妹
ケルト神話で語られるところでは神の一族とされる一族。ケルト神話ではアイルランドに上陸した4番目の種族で、女神ダヌ(ダーナ)を母神とする神族とされる。「トゥアハ・デ」はアイルランド語で「神々の一族」を意味する。一説によれば、フォモール族に追い出されたネミディア族が、ダナーン族になったと言われている。やがて、5番目の種族であるミレー族との戦いに敗れ、地下の世界に移る。この世界は地上の世界の鏡像のような世界だった。やがて彼らは妖精ディーナ・シーとなった。
後漢末期の武将・政治家。涼州を地盤とする軍閥を率い、辺境での戦いで台頭した。189年、霊帝の死後に起きた宮廷の混乱(十常侍の乱)に乗じて都・洛陽を制圧し、少帝を廃して献帝を擁立、自らは相国として実権を握った。専横を極めて諸侯の反発を招き、190年には各地の群雄による反董卓連合が結成された。これに対し董卓は洛陽を焼き払って長安へ遷都するなど暴政を続けたが、192年、養子として迎えていた猛将・呂布に裏切られて暗殺された。三国時代の動乱を象徴する人物とされる。
北欧神話に登場する神である。神話の中でも主要な神の一柱であり、神々の敵である巨人と対決する戦神として活躍するほか、考古学的史料などから、雷神・農耕神として北欧を含むゲルマン地域で広く信仰されたと推定されている。英語読みでは「ソー」となる。外見は燃えるような目と赤髪を持つ、赤髭の大男。砥石(他の文献では火打石の欠けら)が頭に入っているため、性格は豪胆あるいは乱暴。武勇を重んじる好漢であるが、その反面少々単純で激しやすく、何かにつけてミョルニルを使いながら脅しに出る傾向がある。しかし怯える弱者に対して怒りを長く持続させることはない。途方もない大食漢。武器は稲妻を象徴するミョルニルといわれる柄…
北欧神話に登場する海の神「エーギル」とその妻「ラーン」の九人の娘の総称。神のヘイムダルの9人の母となる。『ギュルヴィたぶらかし』第二部『詩語法』では次の9人の名前があがっている。・ヒミングレーヴァ(Himinglæva)(天に輝く者)。・ドゥーヴァ(Dúfa)(沈める波)。・ブローズグハッダ(Blóðughadda)(血まみれの髪)。・ヘヴリング(Hefring)(高くせり上がる波)。・ウズ(Uðr)(叩き付ける波)。・フレン(Hrönn)(重なる波)。・ビュルギャ(Byrgja)(取り囲む者)。・バーラ(Bára)(漂流者を弄ぶ大波)。・コールガ(Kólga)(押し寄せる大波)
北欧神話の神。悪神ロキと妻シギュンの息子とされ、ロキの邪悪で最も危険な血を強く受け継いでいる。ラグナロク(世界の最終的な終末)の際に重要な役割を担うとされるが、その詳細は伝説によって異なる部分がある。
ギリシア神話の絶世の美少年。池に映る自分の姿に恋しながら死を迎える悲劇的な人物として描かれた。その遺骨から水仙の花が咲いたとされ、自己愛と執着の象徴となり「ナルシシズム」という心理用語の語源になった。
ギリシア神話の原初の女神で、夜そのものを象徴していた。名前はギリシャ語で「夜」を意味し、宇宙の創造に関わる根本的で最も強力な力とされた。多くの神話で他の神々の母として描かれ、混沌の中から秩序を生み出す。
北欧神話に登場する神である。ヴァン神族の神であったが、のちに人質としてアース神族に移った。息子はフレイ、娘はフレイヤ。妻は後述のスカジともされている。自分の父の巨人スィアチが神々に殺され、復讐のためにアースガルズにやって来た娘のスカジに対し、神々はアース神族の一人を夫にすることで和解をもちかけた。彼女は男神の脚だけを見せられ、その美しさで選んだ。光と善の神バルドルを狙っていたのだが、脚の美しさで選んだ神はなんとニョルズだった。ニョルズの脚は常に波に洗われて美しかったのだが、美青年というより美丈夫だった。結婚はしたものの、海の神であるニョルズは海に近い自分の住居に住むことを望み、スキーで山…
ケルト神話に登場する神の一柱。ダーナ神族の王。その名は「幸運をもたらす者」「雲作り」をさす。別名「ヌアダ」「銀の腕(アガートラム)」。病を治す力を持つと言われ、水に縁のある神。戦いの神としても伝えられている。
エジプト神話における天空の女神。ヘリオポリス九柱神に数えられる。大気の神シューと湿気の神テフヌトを親に持つ。配偶神は兄でもある大地の神ゲブ。彼との間に、冥界の神オシリス、豊穣の女神イシス、戦争の神セト、葬祭の女神ネフティスを成した。夫のゲブと抱き合っている所を無理矢理シューによって引き離され、天と地が分かれたとされる。指先と足先だけで大地(ゲブ)に触れ、弓なりになった腹部に星が輝き(天の川)、シュー(大気)がこれを支える。
ギリシア神話の正義と報復の女神。人間の傲慢さ(ヒュブリス)に対して神の罰を与える存在として描かれた。本来は「義憤」を意味し、復讐というより神の秩序を守る重要な役割を担っていた。多くの神話で人間の罪を罰する場面で登場。
北欧神話の夜の女神。その名は「夜」を意味する。 。ヨトゥンヘイムに住むナルヴィ、あるいはネルという名の巨人の娘で、髪も姿も生まれつき黒く、暗いとされている。彼女は3度結婚し、最初の夫ナグルファリとの間に息子のアウズを、次の夫アンナルとの間に娘ヨルズを、最後の夫でアース神族の男デリングとの間に息子のダグ(昼)をもうけたが、末の息子は父親に似て明るく美しかった。オーディンは、彼女とその息子のダグを呼び、それぞれに馬車を与え世界を周り続けるように命じ、昼と夜が出来上がった。
ギリシア神話の南風の神。温暖で湿った風をもたらし、晩夏から秋を象徴していた。シリウス上昇の季節と関連付けられ、農作物の豊かな実りをもたらす神として農民から深く崇拝された。古代では季節変化を司る重要な神。
北欧神話に登場する運命の女神。複数形はノルニル。その数は非常に多数ともいわれ、アールヴ族や、アース神族、ドヴェルグ族の者もいる。しかし、通常は巨人族の三姉妹である長女ウルズ、次女ヴェルザンディ、三女スクルドのことのみを意味する場合が多い。彼女ら三人の登場により、アースガルズの黄金の時代は終わりを告げたとされている。世界樹ユグドラシルの根元にあるウルザルブルンのほとりに住み、ユグドラシルに泉の水をかけて育てる。ウルズとベルザンディは木片にルーン文字を彫る。スクルドはワルキューレの一人。
ギリシア神話に登場する神である。その名は「高みを行くもの」の意。ティターン神の一柱で、太陽神・光明神と考えられる。「神統記」によると、ハイペリオンはウラノスとガイアの息子で、オケアノス、コイオス、クレイオス、イーアペトス、クロノス、テイアー、レアー、テミス、ムネーモシュネー、ポイベー、テーテュスと兄弟。「ハイペリオン」は英語読みで、「ヒュペリーオーン」が本来の読みに近い。
エジプト神話に登場する女神。その名前の意味は「ブバスティスの女主」である。バステトは猫の女神として知られる。しかし初めは猫ではなく雌ライオンの頭部を持った姿で崇拝された。紀元前1000年頃に猫の姿あるいは猫の頭部を持つ人間の姿とされるようになった。通常、バステトは太陽神ラーの娘あるいは妹や妻とされることもある。
ローマ神話の火と鍛冶の神ウルカヌス(Vulcan)の英語名。火山の力を象徴し、職人や鍛冶職人、工芸家から深く崇拝されていた。ギリシア神話の火と手工業の神ヘパイストスに相当する非常に重要で神聖な神である。
ギリシア神話の女神で、調和(ハーモニー)を司る。アレスとアフロディーテの娘とされる。テーバイの始祖カドモスと結婚し子供を産んだが、生んだ子供がことごとく不幸な死に方をしたため、神の呪いがこれ以上テーバイに降りかからないように夫のカドモスとともに放浪の旅に出た。カドモスが蛇に変化する際に、ずっと抱き続け最後には自らも蛇に変じてしまった。その後、二人はエーリュシオンの野に住むこととなる。
ギリシア神話に登場する女性で、神々によって作られ人類の災いとして地上に送りこまれた。人類最初の女性とされる。パンは「全てのもの」であり、パンドラは「全ての贈り物」を意味する。プロメテウスが天界から火を盗んで人類に与えたことに怒ったゼウスは、人類に災いをもたらすために「女性」というものを作るようにヘパイストスに命令したという。ヘパイストスは泥から彼女の形を作り、神々は彼女にあらゆる贈り物(パンドラ)を与えた。そして、彼女に決して開けてはいけないといい含めてピトス(箱)を持たせ、プロメテウスの弟であるエピメテウスの元へ送り込んだ。エピメテウスはパンドラに惚れ、プロメテウスの忠告を無視して結婚…
ギリシア神話に登場するキプロス島の王。現実の女性に失望していたピュグマリオーンは、あるとき自ら理想の女性・ガラテアを彫刻した。その像を見ているうちにガラテアが服を着ていないことを恥ずかしいと思い始め、服を彫り入れる。そのうち彼は自らの彫刻に恋をするようになる。さらに彼は食事を用意したり話しかけたりするようになり、それが人間になることを願った。その彫像から離れないようになり次第に衰弱していく姿を見かねたアプロディーテーがその願いを容れて彫像に生命を与え、ピュグマリオーンはそれを妻に迎えた。
北欧神話における重要な大地の女神。オーディンの妻フリッグの母とされ、地母神として大地の豊穣と自然界の保護を司る。古い伝承ではより複雑で多様な関係が記録されており、神聖な土地そのものを象徴する存在とされている。
北欧神話において最初に生まれたとされる神である。彼は、ボルの父であり、オーディンの祖父である。ブーリは、ギンヌンガ・ガップの中に貯まった塩分を含む氷を舐め続けた雌牛のアウズンブラによって作り出された。
北欧神話に登場する女神。主神オーディンの妻でバルドルの母。最高位の女神。オーディンと共に玉座フリズスキャールヴに座す権利を持つ。優れた予言の能力を持っているが決して口にすることはない。神話中ではバルドルの保護や復活に奔走したりと良き母としての描写が見られるが、『誌のエッダ』の『グリームニルのことば』ではオーディンとその養子を仲違いさせ、オーディンが拷問を受けるよう仕向けたり、オーディンが長く国を空けた際には彼の兄弟たちと関係を持ったこともあるなど、夫との対立が見られる。
北欧神話の神。フレイヤの双子の兄。神々の中で最も美しい眉目秀麗な豊穣の神として非常に崇拝された。 。名前「フレイ」とは「主」を意味し、別名とされるユングヴィが本名である。スウェーデン最初の王家は彼の子孫とされ、ユングリング(Yngling)家を名乗っている。一目惚れした巨人の女性ゲルズを手に入れるため、召使スキールニルを巨人の国に遣わせ、その褒美として自分のもつ勝利の剣を手放している。
ギリシア神話の7人姉妹。タイタン神アトラスとプレイオネの娘。マイア、エーレクトラー、ターユゲテー、アルキュオネー、ケライノー、アステロペー、メロペーからなる。星座として天空に位置付けられた有名な存在。
北欧神話における女神の1柱。ヴァン神族出身で、ニョルズの娘、フレイの双子の妹である。生と死、愛情と戦い、豊饒とセイズを司り、オーディンやニョルズとは対概念的な存在である。非常に美しく力のある女神とされ、豊饒神としての性格上性的に奔放であり、ヴァン神族では普通のこととされているものの、父ニョルズや兄フレイとも肉体関係があったほか、霜の巨人や、ドヴェルグたちが身代金や報酬として彼女を望むなど、しばしば性的な欲望の対象になった。フレイヤはヴァン神族の出身であり、ヴァン神族とアース神族の抗争(ヴァン戦争)が終了し和解するにあたり、人質として父、兄とともにアースガルズに移り住み、アース神族にセイズ…
ギリシア神話に登場する男神で、ティーターンの一柱である。イーアペトスの子で、アトラス、メノイティオス、エピメテウスと兄弟、デウカリオーンの父。ゼウスの反対を押しきり、天界の火を盗んで人類に与えた存在として知られる。また人間を創造したともいわれる。
北欧神話に登場するアース神族の一人である。その名前は「番人」「射手」を意味する。アース神族とヴァン神族の間の休戦に調印するにあたって人質として、ヴァン神族の国へ送られた。彼は見栄えはとても良かったという。彼には賢い男ミーミルが同行した。ヴァン神族はヘーニルを自分達の王に据えた。しかし、ヘーニルは優柔不断で、何か決めるときはいつもミーミルに頼った。何か相談されても、ミーミルがいなければどっちつかずな返答をぶつぶつと言うだけだった。これに不満を感じたヴァン神族はミーミルのほうの首をはねてしまう。ミーミルの首はアースガルズへ送り返されたが、ヘーニルも一緒に戻されたかははっきりしない。 。また、…
ギリシア神話に登場する神。古くは雷と火山の神であったと思われるが、後に炎と鍛冶の神とされた。オリュンポス十二神の一柱。神話ではキュクロープスを従え、自分の工房で様々な武器や道具、宝を作っているという。その象徴は円錐形の帽子、武具、金床、金槌、矢床である。その名前の語源は「炉」・「燃やす」という意味のギリシア語に由来するといわれているが、インド神話の火の神・ヤヴィシュタに由来するともいわれる。古くから小アジアおよびレームノス島、シチリア島における火山帯で崇拝された神といわれる。ローマ神話ではウゥルカーヌス(Vulcānus)に相当する。あるいは、ローマ神話名を英語読みしたヴァルカン(Vul…
ギリシャ神話最大の英雄。全能の神ゼウスと人間の女性アルクメネの間に生まれた半神。ヘラの嫉妬により狂気に陥って妻子を殺害し、その罰として十二の功業を課せられた。ネメアの獅子退治、レルネのヒュドラ退治、アウゲイアスの家畜小屋の掃除など、すべてを成し遂げて不死を得た。ローマ名はヘルクレス。
ギリシア神話に登場する三人の巨人。その名は「百の手」を意味し、五十頭百手の巨人の姿をしているとされる。「ヘカトンケイル」はウラノスとガイアの息子の「コットス」「ブリアレオース」「ギュゲース」の三兄弟のこと。
ギリシア神話に登場する炉、暖炉、家庭、家族、国家の正しい秩序を司る処女の女神である。クロノスとレアーの娘で、ゼウス、ポセイドーン、ハーデース、ヘーラー、デーメーテールと姉弟。アテーナー、アルテミスと同じく処女神である。古代ギリシアにおいて炉は、家の中心であり、従ってヘスティアーは、家庭生活の守護神として崇められた。スキタイで信仰される主神である。また炉は、犠牲を捧げる場所でもあり祭壇・祭祀の神でもある。さらに国は、家庭の延長上にあるとされていたため国家統合の守護神とされ、各ポリスのヘスティアーの神殿の炉は、国家の重要な会議の場であった。加えて全ての孤児達の保護者であるとされる。オリュンポ…
ギリシア神話に登場する神である。古くは雷と火山の神であったと思われるが、後に炎と鍛冶の神とされた。オリュンポス十二神の一柱。神話ではキュクロープスらを従え、自分の工房で様々な武器や道具、宝を作っているという。その象徴は円錐形の帽子、武具、金床、金鎚、矢床である。ゼウスとヘーラーの息子で第1子。ゼウスは、前妻であるテミスとの間にホーライ3姉妹やモイライ3姉妹などをもうけた。ゼウスが前妻との間に立派な子を儲けていたことに焦ったヘーラーが、正妻としての名誉を挽回するべく単性生殖して産んだ子供であるとされる。ところが、生まれたヘーパイストスは両足の曲がった醜い奇形児であった。これに怒ったヘーラー…
ギリシャ神話に登場するオリュンポス十二神の一柱であり、最高位の女神。その名はギリシャ語で「貴婦人、女主人」を意味し、結婚と母性と貞節をつかさどる。権威を象徴する王冠と王笏を持っている。嫉妬深い性格で、ゼウスの浮気相手やその間の子供に苛烈な罰を科しては様々な悲劇を引き起こした。ゼウスとの夫婦仲も良いとはいえなかった。
ギリシア神話の太陽神である。その名はギリシア語で「太陽」を意味する一般名詞と同一である。象徴となる聖鳥は雄鶏。太陽は天空を翔けるヘーリオス神の4頭立て馬車であると古代ギリシア人は信じていた。紀元前4世紀頃から、ヘーリオスはアポローンと同一視(習合)されるようになった。これはアポローンに光明神としての性質があったためと考えられる。同様に、ヘーリオスの妹で月の女神であるセレーネーは、アポローンの双子の姉であるアルテミスと同一視されるようになった。ヘーシオドスの『神統記』によれば、ヒュペリーオーンとテイアーの息子である。曙の女神エーオースや月の女神セレーネーは姉妹。また魔女のキルケーやヘーリア…
北欧神話における老衰、疾病による死者の国を支配する女神。エーリューズニルという館に住む。ロキが巨人のアングルボザとの間にもうけたといわれ、フェンリル、ヨルムンガンドは彼女の兄弟である。ヘルはオーディンによって兄弟たち同様に遠隔地であるニブルヘイムへ追放された。そこで彼女に死者を支配する役目を与え、ヘルヘイムと呼ばれる地とした。北欧神話において、唯一死者を生者に戻すことができる。
北欧神話・伝承に登場する、異能の戦士たちである。古ノルド語やアイスランド語ではベルセルクル (berserkr)、英語ではバーサーカー (berserker) と言い、日本語ではしばしば狂戦士と訳される。軍神オーディンの神通力をうけた戦士で、危急の際には自分自身が熊や狼といった野獣になりきって忘我状態となり、鬼神の如く戦うが、その後虚脱状態になるという。この忘我状態のベルセルクは動く物ならたとえ肉親にも襲い掛かったので、戦闘ではベルセルクと他の兵士は出来るだけ離して配備し、王達もベルセルクを護衛にはしなかったという。
ギリシャ神話の青年神で、オリュンポス十二神の一柱。ゼウスとマイアの子とされ、神々と人間をつなぐ伝令使を務めた。旅人・商人・雄弁・盗人の守護神であり、死者の魂を冥界へ導く案内者(プシュコポンポス)の役割も担った。有翼のサンダルと帽子を身につけ、二匹の蛇が絡む杖ケリュケイオン(カドゥケウス)を持つ姿で描かれる。竪琴を発明したとも伝えられ、機知と機敏さの象徴とされた。ローマ神話の商業神メルクリウス(マーキュリー)と同一視された。
北欧神話の神の一柱。古ノルド語で「勇気-戦い」を意味する。 オーディンの息子であり、アース神族に属する。〈俊敏のヘルモーズ〉とも呼ばれる。ロキの奸計によって兄弟であるバルドルが命を落とした際、オーディンの命により8脚の神馬スレイプニルを駆って、冥府の女王ヘルの下に向かった。
ギリシア神話の人物で、古代ギリシア人の祖先。デウカリオーンとピュラーの子とされ、大洪水の後の人類再生に関わる。古代ギリシア人は自らをヘレーネスと自称し、同じヘレーン民族の子孫であることを誇りとしていた。
ギリシア神話の海と地震を司る神である。オリュンポス十二神の一柱で、最高神ゼウスに次ぐ圧倒的な強さを誇る。海洋の全てを支配し、全大陸すらポセイドーンの力によって支えられている。地震をもコントロール出来るとされる。また、地下水の支配者でもあり、泉の守護神ともされる。ポセイドーンの地位と実力は、ゼウス・エナリオス(海のゼウス)と呼ばれるほど高く、その支配力は全物質界に及んだ。ティーターノマキアーの際にキュクロープスから贈られた三叉の矛(トリアイナ)を最大の武器とし、これによって大海と大陸を自在に支配する。これを使えば容易く嵐や津波を引き起こし、大陸をも沈ませることができる上に、万物を木端微塵に…
最初の神ブーリの息子であり、北欧神話の主神オーディンの父親。ヨトゥンのボルソルンの娘であるベストラという名の女性を娶り、三人の息子を得た。息子は一人目はオーディン、二人目はヴィリ、三人目はヴェーという名前であった。
ラー・ホルアクティとも呼ばれ、ホルアハティとも表記される天空と太陽の神ホルスの形態の1つ。昇る太陽を神格化した存在であり、その名は「地平線のホルス」という意味だとされる。太陽神ラーに近い存在だとされており、一説によれば日の出の時の地平線を黄金に輝かせながら昇る太陽を神格したものではないかと言われている。
エジプト神話の天空・王権の神。隼(ハヤブサ)の頭を持つ男性、または隼そのものとして描かれ、太陽と月を両眼とするとされる。オシリスとイシスの子として生まれ、叔父セトに殺された父の仇を討ち、長い抗争の末に王位を継いだと伝えられる。生前のファラオは「生けるホルス」として、その化身と見なされ、王権の正統性を象徴した。左目に由来する「ウジャト(ホルスの眼)」は癒しと守護のシンボルとして護符に広く用いられた。古い時代には天空神として太陽神ラーと習合し、ラー・ホルアクティなど多様な姿でも崇拝された、古代エジプトで最も重要な神格の一つ。
ギリシア神話の北風の神。激しく冷たい危険な風をもたらしていた。名前は「北風」または「むさぼる者」を意味し、強力で荒々しい性格として描かれた。冬の象徴であり、古代社会では畏敬の念をもって恐れられていた。
北欧神話に登場する月の神。ムンディルファリという男が、自身の2人の子供があまりに美しいことから、娘にソール(太陽)、息子にマーニ(月)という名をつけた。神々はこれに怒り、2人を捕らえて、太陽を牽く馬車の馭者をさせた。ソールは太陽の運行を、マーニは月の運行と満ち欠けを司る。月は常にハティという狼に追いかけられているため、急いで運行しなければならない。ラグナロクの時、月は狼(ハティもしくはマーナガルム)に捕らえられて大損害を受けるといわれている。
ローマ神話における戦と農耕の神。英語読みは「マーズ」。ギリシア神話の「アレス」と同一視され、軍神として「グラディウス」という異称でも呼ばれる。青年の理想像として主神なみに篤く崇拝された。男を表す性別記号「♂」は本来マールスを意味する記号である。
日本神話に登場する神である。神名の「禍」は「災厄」、「ツ」は上代語の格助詞「の」、「日」は「神霊」の意味で、「災厄の神霊」という意味になる。黄泉の穢れから生まれた神で、災厄を司る神とされている。後に、この神を祀ることで災厄から逃れられると考えられるようになり、厄除けの守護神として信仰されるようになった。
バビロニア神話などに登場する男神。バビロニアの国家神。『エヌマ・エリシュ』曰く、世界と人間の創造主でもある。マルドゥックの神殿がバベルの塔のモデルになったといわれている。マルドゥクは木星の守護神であり、太陽神であり、呪術神であり、英雄神であった。そういった多面的な神格を持ったことで、様々な面から信仰を受けてきたとされる。
北欧神話のオーディンの相談役となった賢者の神。オーディンの伯父にあたる巨人といわれている。アース神族とヴァン神族との戦争が終わり和睦した際、アース側からの人質としてヘーニルとともにヴァナヘイムへ送られた。ヴァン神族はヘーニルを首領にしたが、彼が期待したような人物でないことが判明すると、ミーミルの首を切断してアース神族の元へ送り返した。その後、オーディンが首が腐敗することのないように薬草を擦り込み、魔法の力で生き返らせ、大切なことは必ずこの首に相談したと伝えられている。ラグナロクが到来した際も、オーディンは真っ先に首の助言を仰いだ。
ギリシア神話で文芸を司る女神たち。「ムーサ」ともいう。ムーサたちはパルナッソス山に住むとされており、またヘリコーン山との関係が深い。「神統記」では、ゼウスとムネーモシュネーの娘で9柱いるとされており、「黄金のリボンをつけたムーサたち」と形容することがある。カリオペー、クレイオー、エウテルペー、タレイア、メルポメネー、テルプシコラー、エラトー、ポリュムニアー、ウーラニアー。
ギリシア神話に登場する神話的民族である。ギリシア語の「蟻」に由来するとされる。アキレウスに率いられてトロイア戦争に参加した。ゼウスはアイギーナを父のもとからさらい、当時オイノーネーと呼ばれていた島に連れて来て、アイアコスを生ませた。これ以降オイノーネー島はアイギーナ島と呼ばれるようになった。ゼウスはアイアコスがアイギーナ島に一人でいるのを哀れみ、蟻を人間に変えてあげた。彼らがミュルミドーン人である。
ギリシア神話で文芸を司る女神たち。「ミューズ」ともいう。ムーサたちはパルナッソス山に住むとされており、またヘリコーン山との関係が深い。「神統記」では、ゼウスとムネーモシュネーの娘で9柱いるとされており、「黄金のリボンをつけたムーサたち」と形容することがある。カリオペー、クレイオー、エウテルペー、タレイア、メルポメネー、テルプシコラー、エラトー、ポリュムニアー、ウーラニアー。
古代エジプト神話に関連する語である。大きく二通りの意味を持つ。「メジェド」とは、古代エジプトにおいて「打ち倒す者」という意味である。本項では、オシリスに関連深い死者の書の一つグリーンフィールド・パピルスなどにおいて他の登場人物から、この名で礼拝された「神」及び同名で信仰された「魚の一種」を解説する。
アイルランド民話に登場する海の超自然的生物。人魚または半魚人として描かれ、赤い帽子と緑色の衣装という特徴的な外見を持つ。名前は「海の歌い手」に由来し、古い海神信仰の名残であり、特に海との深い関係を象徴する。
ゾロアスター教において崇拝される中級の善神の総称。ヤザタは人間に祀られる事を常に欲しており、また、祀られる事によって人間に恩恵を与えると言う。こうした性格はインドのデーヴァと共通しており、ゾロアスター教に取り入れられてなお古い多神教時代の性格を色濃く残していると言える。主なヤザタは以下。・アータル。・アープ。・ウルスラグナ。・スラオシャ。・ティシュトリヤ。・ハオマ。・フワル・フシャエータ。・ミスラ。・ラシュヌ。・アナーヒター

古事記・日本書紀に登場する伝説的英雄。第12代景行天皇の皇子。九州の熊襲征討では女装して敵の首領を倒し、東国征討では草薙の剣で窮地を脱した。しかし帰路の途中で病に倒れ、故郷の大和を偲びながら「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし」と詠い、白鳥となって飛び去ったとされる。
ローマ神話の最高神。天空と気象(特に雷)を司り、雷霆を武器とする。妻ユーノー、ミネルウァとともに「カピトリヌスの三神」を構成し、ローマのカピトリヌス丘に建てられたユピテル・オプティムス・マクシムス(最善最大のユピテル)神殿は、ローマ国家祭祀の中心であった。凱旋式では戦勝将軍がこの神殿でユピテルに勝利を捧げ、執政官の就任儀礼も同神殿と結びつくなど、ローマの政治権力と国家の守護を象徴する神とされた。ギリシア神話のゼウスと同一視され、多くの神々や英雄の父とされる。その名は惑星の木星(Jupiter)や、ラテン系言語の木曜日(フランス語jeudiなど)の語源にもなっている。
北欧神話に出てくる原初の巨人。彼はまた「アウルゲルミル」とも呼ばれる。ムスペルヘイムとニブルヘイムの境で生まれ、原初の牛アウズンブラの乳を飲んでいた。ユミルの身体の各所から何人もの巨人が産み出された。その中には頭が複数ある奇怪な姿の巨人もいたとされる。巨人たちは常に神々と対立しており、巨人の王となっていたユミルはオーディン、ヴィリ、ヴェーの三神に倒された。この時、ユミルから流れた血により、ベルゲルミルとその妻以外の巨人は死んでしまう。三神はユミルを解体し、血から海や川を、身体から大地を、骨から山を、歯と骨から岩石を、髪の毛から草花を、睫毛からミズガルズを囲う防壁を、頭蓋骨から天を、脳髄か…
ギリシャ神話に登場するイタケの王。知略に優れた英雄で、トロイア戦争では木馬の計略を考案してトロイア陥落に導いた。帰国の航海では10年もの艱難辛苦を経験し、キュクロプス、魔女キルケ、セイレーンなど数々の試練を乗り越えて故郷に帰還し、妻ペネロペイアに求婚する者たちを討った。ホメロスの叙事詩「オデュッセイア」の主人公。
北欧神話の神。フレイヤの双子の兄。神々の中で最も美しい眉目秀麗な豊穣の神として非常に崇拝された。 。名前「フレイ」とは「主」を意味し、別名とされる「ユングヴィ」が本名である。スウェーデン最初の王家は彼の子孫とされ、ユングリング(Yngling)家を名乗っている。一目惚れした巨人の女性ゲルズを手に入れるため、召使スキールニルを巨人の国に遣わせ、その褒美として自分のもつ勝利の剣を手放している。
北欧神話に登場する女神である。一般に大地の化身と考えられている。ヨルズはオーディンの妻の一人で、トールの母であるという。またオーディンが「万物の父」であるがゆえに、ヨルズはオーディンの妻であると同時に「娘」であるともされている。
エジプト神話の最高位の太陽神。隼の頭を持つ姿で描かれ、毎日太陽舟で天を航海し夜間は冥界を通っていた。ヘリオポリス九柱神の最高位で、ファラオの守護神として深く崇拝されていた。古代エジプト宗教の中核的存在。
北欧神話に登場する女神の名前である。 。海の神であるエーギルの妻。大きな網を持っていて、船や人を海中に巻き込むといわれている。ロキが黄金を入手すべくドワーフのアンドヴァリを捕らえようとした際には、ラーンから網を借りている。ラーンと夫エーギルとの間には9人の娘がおり、「波の乙女」と呼ばれている。
日本の民間信仰や神道における雷の神。「雷様(かみなりさま)」「雷電様(らいでんさま)」「鳴神(なるかみ)」「雷公(らいこう)」とも呼ばれる。容姿は、俵屋宗達の風神雷神図を代表例に、鬼の様態で、牛の角を持ち、虎の革のふんどしを締め、輪形に連ねた太鼓を背負い打ち鳴らす姿が馴染み深い。
仁徳天皇の時代に飛騨に現れたとされる異形の人、鬼神。『日本書紀』において武振熊命に討たれた凶賊とされる一方で、岐阜県の在地伝承では毒龍退治や寺院の開基となった豪族であるとの逸話も残されている。両面宿儺は、計八本の手足に頭の前後両面に顔を持つという奇怪な姿で描写される。
後漢末期の武将で、三国時代最強とも称される武勇の持ち主。「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と並び称され、名馬・赤兎馬とともに語られる。並州の出身で、はじめ丁原に仕えたがこれを殺して董卓の養子となり、後に董卓も討つなど、二度にわたる主殺しによって信望を失った。董卓の死後は各地を流浪し、曹操や劉備と結んでは離反することを繰り返したが、最終的に199年、下邳城の戦いで曹操に敗れて捕らえられ、処刑された。武勇に優れる一方で統率や信義に欠けた人物として描かれる。
ローマ神話の月の女神。夜の暗い空に銀色の光をもたらす女神として古代から深く崇拝されていた。ギリシア神話のセレーネーと同一視され、馬が引く銀色の馬車に乗る優雅な姿で美術作品に非常に多く表現されることが多い。
ローマ神話の出産と懐妊の女神。出産時の苦痛を軽減し、母親と生まれてくる子供の安全な出産をもたらすと信じられていた。特に妊婦から厚く深い信仰を集め、難産の際に援助や加護を強く求める最重要の対象とされていた。
スラブ神話に登場する水の精麗。精霊というよりは幽霊のようなもので、水の事故で死んだ女性、洗礼を受ける前に死んだ赤ん坊などがルサールカになるという。その名前は、古代スラブ人のルサーリイという祭りに由来し、豊穣伸としての一面もあるといわれる。水の精麗であるが、海ではなく、川や池、湖といった農民に身近な場所に住んでいる。
北欧神話の著名なワルキューレで、名前は「神々の力」または「神々に寄る者」を意味する。戦場で勇敢で栄誉ある戦士たちを選別し、死後ヴァルハラの宮殿へ導く女戦士として神聖視され、人間の運命を司る存在とされた。
北欧神話に登場する悪戯好きの神。その名は「閉ざす者」、「終わらせる者」の意。神々の敵であるヨトゥンの血を引いている。巨人の血を引きながらもオーディンの義兄弟となってアースガルズに住み、オーディンやトールと共に旅に出ることもあった。変身術を得意とし、男神であるが時に女性にも変化する。ラグナロクにおいては戒めがはずれ、巨人族を率いてアース神族を滅ぼすために出陣した。しかし最後はヘイムダルと相打ちになり終わった。
ペルシアの叙事詩「シャー・ナーメ(王書)」に登場する最強の英雄。ザールの息子で、愛馬ラフシュとともにペルシアの危機を幾度も救った。七つの試練を乗り越え、白い悪魔を倒したことで知られる。最も有名な悲劇は、知らずに実の息子ソフラーブと一騎打ちをして殺してしまった逸話で、ペルシア文学最大の名場面とされる。
ローマ建国神話に登場する初代ローマ王。軍神マルスと巫女レア・シルウィアの双子の息子で、弟レムスとともに狼に育てられた。パラティーノの丘にローマを建設する際、都市の境界をめぐる争いでレムスを殺害。サビニの女たちの略奪を行って人口を増やし、ローマの礎を築いたとされる。紀元前753年のローマ建国の象徴的人物。
日本神話における重要な海の神。ワダツミとも呼ばれ、海そのものを擬人化した存在として扱われる。古い信仰では海や海原の広大さを象徴する神聖な力として表現され、水産業や航海の安全を守る存在として信仰された。
北欧神話において、戦場で生きる者と死ぬ者を定める女性、およびその軍団のこと。「ヴァルキュリア」とも呼ぶ。戦場で死んだ者の半分をオーディンの治める死者の館ヴァルホルに連れていく役割を担う。ヴァルハラでは、死んだ戦士たちはラグナロクに備える兵士エインヘリャルとなるが、ワルキューレは彼らに蜜酒を与える給仕にもなる。またワルキューレは英雄をはじめとする人間たちの恋人としても登場し、そのような場合は王族の娘として描かれることもある。ワタリガラスを伴って描かれたり、また白鳥や馬と結び付けられることもある。
メソアメリカで広く崇拝された「羽毛ある蛇」の神。ケツァル鳥(輝く緑の羽を持つ鳥)とコアトル(蛇)を合わせた名を持つ。テオティワカン時代から信仰され、トルテカ文明では文化英雄・王=神官として伝説化された。アステカでは風と知恵・暦・職人の守護神として崇拝された。「東の海へ去った白い肌のケツァルコアトルがいつか戻る」という伝説が、1519年にコルテスが東から来航した際にモクテスマ2世の判断を迷わせた一因ともされる(後世の創作説もある)。後古典期マヤではククルカンと同一視される。現代もメキシコの文化的シンボルとして芸術・文学に広く登場する。
初期キリスト教の最大の伝道者であり「異邦人の使徒」と呼ばれる。もとはパリサイ派の熱心なユダヤ教徒(サウロ)としてキリスト教徒を迫害していたが、ダマスコへの途上で復活のイエスに出会い回心した。その後、小アジアやギリシャ、ローマなどを広く旅して異邦人(非ユダヤ人)にキリスト教を布教し、キリスト教がユダヤ教の一派から世界宗教へと飛躍する決定的な役割を果たした。新約聖書に含まれる多くの書簡(パウロ書簡)の著者であり、キリスト教神学の基礎を築いた。

後漢末期の武将、政治家。黄巾の乱から頭角を現し、官渡の戦いで袁紹を破って華北を統一。自らを献帝の保護者とし、強大な権力圏(後の魏)を築いた。「乱世の奸雄」と称される一方で、優れた詩人・文学者(建安文学)でもあり、兵法書の注釈(魏武註孫子)も行うなど並外れた才能を持っていた。

蜀漢の初代皇帝。前漢の中山靖王の末裔を自称し、関羽・張飛と義兄弟の契り(桃園の誓い)を結んで挙兵。長らく流浪の身であったが、三顧の礼で諸葛亮を迎え入れてから運が開け、赤壁の戦いを経て蜀(益州)を平定。「仁の君主」として三国志演義では主役格として描かれる。
後漢末から三国時代にかけて孫策・孫権に仕えた呉の武将・軍師。字は公瑾。廬江郡の名家に生まれ、若き孫策の盟友として江東平定を助けた。音楽に通じ容姿も優れていたことから「美周郎」と称された。208年の赤壁の戦いでは呉軍の総司令官として劉備軍と連合し、火攻めの計を用いて曹操の大軍を撃破、天下三分の流れを決定づけた。その後は天下二分を構想して益州への進出を企図したが、その実現を前に36歳の若さで病没した。智勇兼備の名将として、後世の物語にも繰り返し描かれている。
魏の優れた軍師であり政治家。曹操から曹芳まで四代にわたって仕え、魏の軍権を掌握した。五丈原の戦いでは諸葛亮の挑発に乗らず徹底した持久戦で蜀軍を撤退させた。晩年のクーデター(高平陵の変)によって曹氏の実権を奪い、孫の司馬炎による晋帝国建国の礎を築いた。

三国時代の蜀漢の丞相・軍師。字は孔明。劉備の三顧の礼を受けて出仕し、天下三分の計を献策した。蜀漢建国後は内政・外交・軍事の全てを統括し、北伐を繰り返したが志半ばで五丈原に没した。「出師の表」は名文として知られる。三国志演義では神算鬼謀の天才軍師として描かれ、中国文化圏で最も人気のある歴史人物の一人。

三国時代の呉の初代皇帝。父・孫堅と兄・孫策が築いた江東の基盤を、兄の死を受けて19歳で継承した。208年の赤壁の戦いでは劉備と結び、周瑜に命じて曹操の大軍を撃破して勢力を確立。その後、荊州をめぐって関羽を破り、222年には夷陵の戦いで劉備の大軍を退けた。同年に魏から呉王に封じられ、229年には皇帝を称して建業(現在の南京)に都を定めた。強大な魏・蜀に挟まれながら、巧みな外交と長江を生かした防衛で半世紀にわたり国を保ち、三国鼎立の一角を担った。

3世紀に存在したパルミラ帝国の「女王」と呼ばれた人物である。パルミラにあるギリシア語・パルミラ語合璧碑文では、パルミラ語(アラム語パルミラ方言)で「最も傑出した敬虔なる女王、セプティミア=バト=ザッバイ」( ספטמיא בת זבי נהירתא וזדקתא מלכתא spṭmy' bt zby nhyt' w zdqt' mlkt' )と記されている。240年頃に生まれたとされる。270年にローマ皇帝となったルキウス・ドミティウス・アウレリアヌスは北方異民族の侵入を撃退すると、ローマから分離・割拠した西のガリア帝国、東のパルミラ王国に目を向けた。アウレリアヌスはパルミラに降伏を勧告したが、272年にゼノビアはアウグストゥスの女性形である「アウグスタ」を自称、ウァバッラトゥスには「アウグストゥス」を名乗らせると共にこれを記念した貨幣を発行し、ローマに対抗する姿勢を見せた。戦争はローマの勝利に終わり、ゼノビアはローマへと連行された。274年にガリア帝国もローマへ統合したアウレリアヌスの凱旋式(274年)でローマ市内を引き回された。ゼノビアの身体は黄金の鎖で縛られ、ローマ市民への見せ物にされたという。

ブリテンを侵略者から守った伝説的な王。石に刺さった剣を引き抜いて王位に就き、魔法使いマーリンの導きで円卓の騎士団を結成した。聖剣エクスカリバーを手に数々の戦いに勝利したが、騎士ランスロットと王妃グィネヴィアの不義、モードレッドの反乱により王国は崩壊。カムランの戦いで致命傷を負い、アヴァロンの島に運ばれたとされる。実在のブリトン人指導者をモデルとする説もある。
イスラーム教の預言者でイスラーム共同体(ウンマ)の創始者。メッカの商人であった40歳頃、ヒラー山の洞窟で大天使ジブリールを介しアッラーの啓示を受けたと伝えられる。622年、迫害を逃れメディナへ移住する「ヒジュラ」を境にイスラーム暦が始まり、10年ほどでアラビア半島を宗教的・政治的に統一した。死後編纂された『クルアーン』と言行録『ハディース』は、今日18億人超のムスリムの信仰と法の規範となっている。
イスラム教の初代正統カリフ。預言者ムハンマドの最も古い友人の一人にして最側近であり、ムハンマドの死後(632年)、初期イスラム共同体(ウンマ)の指導者として選出された。アラビア半島内で起きた離反運動(リッダ戦争)を鎮圧し、イスラムの連帯を維持したことで、その後のイスラム帝国の急速な拡大の基礎を固めた。スンナ派においては極めて敬愛される存在である。
イスラム教の第4代正統カリフであり、預言者ムハンマドの従弟かつ娘婿(ファティマの夫)。初期のイスラム共同体において数々の武勲を立てた。ウンマの指導者をめぐる対立の中でカリフに就任したが、シリア総督ムアーウィヤらとの内戦(第一次内戦)が発生。後にハワーリジュ派の凶刃に倒れて暗殺された。アリーをムハンマドの正統な後継者・イマームとみなす人々が「シーア・アリー(アリーの党派)」を形成し、これがのちのシーア派となった。
唐代の僧侶であり、中国仏教における最大の翻訳家・法相宗の開祖。仏教の真髄を求めて唐の国禁を破り、シルクロードを経てインドへ過酷な求法の旅に出た。ナーランダー大学で唯識思想などを深く学び、16年の歳月を経て多数のサンスクリット語経典を唐へ持ち帰った。帰国後は太宗の庇護のもとで経典の漢訳事業に専念した。彼の旅行記『大唐西域記』は中央アジアやインドの歴史・地理を知る第一級の史料であり、後世の伝奇小説『西遊記』の三蔵法師のモデルともなった。
メッカの名門クライシュ族ウマイヤ家出身の政治家・武将で、ウマイヤ朝の創始者。第3代正統カリフ・ウスマーンのもとでシリア総督を務め、第4代カリフ・アリーとはイスラム共同体の指導権をめぐる第一次内乱(フィトナ)で対立した。アリーの死後の661年にカリフ位を確立し、ダマスクスを都とするウマイヤ朝を開いた。地中海への海軍展開やビザンツ帝国への遠征を進める一方、統治では武力よりも交渉と寛容(ヒルム)を重んじたと伝えられる。息子ヤズィードを後継者に指名し、イスラム史上初めてカリフ位の世襲への道を開いた。
唐代最大の詩人の一人で「詩仙」と称される。中央アジア出身と伝えられ、道教に深く親しみながら玄宗皇帝の宮廷詩人・翰林学士となった。安史の乱で失脚し放浪を余儀なくされたが、「月下独酌」「廬山の瀑布を望む」など酒と月と山水を詠う雄大で奔放な詩風は、同時代の杜甫と双璧をなした。後世の東アジア漢詩に最も広く模倣された詩人である。

8世紀にフランク王国にキリスト教を広めたイングランド出身の宣教師。ワルプルガは、イングランドの南西部のデヴォン州で生まれた。長じて、聖ボニファティウスを叔父と兄たちと共に助けて、フランク王国(ヴュルテンベルクとフランコニア)で、宣教活動に従事した。フランクフルトの修道院で医術も学び、後に兄たちが設立したハイデンハイムの女子修道院の院長を務め、兄たちが亡くなってからは男子修道院の院長も務めた。彼女はバイエルンのアイヒシュテットで亡くなっている。ワルプルガは厳格な訓練のおかげで、兄の伝記をラテン語で書いているので、その意味で英国およびドイツの初めての女性作家ともいわれる。彼女は870年5月1日に教皇アドリアヌス2世により列聖された。聖人暦にある聖ワルプルガの祝日(2月25日)は祝われなくなったが、彼女の名はメイ・デーの前夜祭「ヴァルプルギスの夜」として残っている。

中国唐代の皇妃。姓は楊、名は玉環。貴妃は皇妃としての順位を表す称号。玄宗皇帝の寵姫。玄宗皇帝が寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こしたと伝えられたため、傾国の美女と呼ばれている。世界三大美人の一人で古代中国四大美人(西施・王昭君・貂蝉・楊貴妃)の一人とされている。壁画等の類推から、当時の美女の基準からして実際は豊満な女性だった。また、才知があり琵琶を始めとした音楽や舞踊に多大な才能を有していたことでも知られている。

カロリング朝を開いたピピン3世(小ピピン)の子。768年に弟のカールマンとの共同統治(分国統治)としてカール大帝の治世は始まり、カールマンが771年に早世したのちカールは43年間、70歳すぎで死去するまで単独の国王として長く君臨した。カールは全方向に出兵して領土を広げ、フランク王国の最盛期を現出させた。800年にはローマ教皇レオ3世によってローマ皇帝コンスタンティノス6世の後継者として帝冠を授けられた。帝都コンスタンティノープル(東ローマ帝国)はカールのローマ皇帝位を承認しない代わりにフランク皇帝だとは認め、ギリシャと正教の西方への権威を事実上放棄した。こうして古典ローマ、カトリック、ゲルマン文化の融合を体現したカール大帝は、中世以降のキリスト教ヨーロッパの王国の太祖として扱われており、「ヨーロッパの父」とも呼ばれる。カール大帝の死後843年にヴェルダン条約でフランク王国は分裂し、のちに神聖ローマ帝国・フランス王国・ベネルクス・アルプスからイタリアの国々が誕生した。1165年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の尽力によりカール大帝は列聖された。

平安時代初期の僧侶であり、日本真言宗の開祖。「弘法大師」の諡号で知られる。遣唐使として唐に渡り、長安の青龍寺で恵果から密教の奥義を授かり、わずかな期間で正統な後継者となった。帰国後、高野山(金剛峯寺)を開創して真言密教の根本道場とし、また教王護国寺(東寺)を与えられて密教の普及に努めた。宗教家としてだけでなく、書家(三筆の一人)、文人、社会事業家(満濃池の修築など)、・教育家(綜芸種智院の創設)としても超人的な才能を発揮した多大なる天才である。
1,000年代にスカンディナヴィアで用いられたヴァイキングの刀剣に見られる銘文。「ウルフバート」は刀工の名前もしくは、製造所の名前とされている。これらの刀剣に用いられた鋼鉄の品質は産業革命以前のものとして比類がない。現在までに171振りが発見されているが、「本物」のウルバートと確認されたものは数点に止まる。この剣の第一の使用法は敵のチェインメイルや盾を貫く事にあった。ウルフバートの刃は同時期の他の武器と比較して非常に柔軟で、木や鉄を貫通する際に折れたり引っ掛かったりすることが少なかった。従って使用者は敵を倒した後にすぐさま次の行動に移れた。
ハンガリー王国の初代国王(在位1000/1001年〜1038年)。975年頃、マジャル人の大首長ゲーザの子として生まれる。西暦1000年(1001年初頭とも)に教皇シルウェステル2世の承認を得た王冠で戴冠し、ハンガリー王国を建国した。キリスト教(カトリック)の布教を強力に推進してエステルゴム大司教座をはじめとする教会組織を整備し、州(コミタトゥス)制度による統治体制を確立して、遊牧的な部族社会から中央ヨーロッパのキリスト教王国への転換を成し遂げた。1083年に列聖され、ハンガリーの守護聖人として現在も篤く敬われている。戴冠に用いられたと伝えられる「聖イシュトヴァーンの王冠」はハンガリー国家の象徴である。
中世イスラーム世界最大の哲学者・医学者。ブハラ近郊(現ウズベキスタン)に生まれ、10代でアリストテレス哲学を修め、サーマーン朝の宮廷医として活躍した。主著『医学典範(カーヌーン)』は古代ギリシア医学とイスラーム医学を体系化し、ラテン語訳によって17世紀までヨーロッパの医学部の標準教科書となった。『治癒の書』では存在論と認識論を精緻に論じ、スコラ哲学にも決定的影響を与えた。
源氏の長老的存在で、平氏全盛の時代に源氏として唯一朝廷で高い地位を得ていた武将・歌人。鵺(ぬえ)退治の伝説でも知られる。1180年、以仁王とともに平氏打倒の令旨を発して挙兵するが、宇治平等院の戦いで敗れ自害した。この挙兵は失敗に終わったものの、全国の源氏に蜂起を促す契機となり、源平合戦の火蓋を切る歴史的な意味を持った。

平安時代末期の武将で、武士として初めて太政大臣にまで昇りつめた人物。保元の乱(1156年)・平治の乱(1159年)で勝利し、平氏の全盛期を築いた。娘の徳子を高倉天皇に嫁がせ、外孫の安徳天皇を即位させるなど、朝廷を掌握。日宋貿易を推進し大輪田泊(現・神戸港)を整備した。しかし独裁的な権力に対する反発が強まり、1180年に以仁王・源頼政の挙兵をきっかけに源平合戦が勃発。翌1181年に熱病で没し、平氏滅亡の結末を見ることはなかった。
奥州藤原氏の第3代当主で、平泉を拠点に東北地方に独自の繁栄を築いた。金や馬の交易で莫大な富を蓄え、中尊寺金色堂に代表される平泉文化を発展させた。源平合戦期には中立を保ちつつ、逃亡してきた源義経を庇護。死の際に義経を守るよう遺言したが、息子の泰衡はこれに従わず、義経を攻め滅ぼした。秀衡の死は奥州藤原氏滅亡の引き金となった。

ホーエンシュタウフェン朝第2代ローマ王、イタリア王フェデリーコ1世バルバロッサ、また同王朝初代となるローマ教会の皇帝フリデリクス1世のことをいう。ブルグント王としても正式に戴冠している。先代王コンラート3世の甥でザーリアー朝の皇帝ハインリヒ4世の曾孫にもあたる。父はシュヴァーベン大公フリードリヒ2世(独眼公)、母はバイエルン公ハインリヒ9世の娘ユーディト。衰退しかかっていた帝権回復を目指して戦った勇猛な皇帝であり後世で英雄とされた。1147年の父の死によりシュヴァーベン大公位を継承、1152年に叔父のコンラート3世の指名でローマ王に即位する。即位後は帝国の混乱を収拾するために、本国たるアルプス以北の諸侯に対しては特権を与えて協調をはかった。帝国の宿敵で従弟でもあるヴェルフ家のバイエルン公兼ザクセン公ハインリヒ獅子公には司教叙任権を授与し、さらに1156年にはバイエルン公位を与えるなどして和解し、これを収めることに成功した。
第77代天皇で、退位後に院政を敷いて約30年にわたり政治の実権を握った。保元の乱(1156年)・平治の乱(1159年)を経て、平清盛、木曾義仲、源頼朝と次々に変わる武家の実力者と渡り合い、巧みな政治力で朝廷の権威を維持し続けた。源頼朝から「日本一の大天狗」と評された。今様(流行歌)を愛好し『梁塵秘抄』を編纂するなど文化面でも功績を残した。
南宋の儒学者で朱子学(宋学)の大成者。理気二元論と居敬窮理の修養論を体系化し、『大学』『中庸』『論語』『孟子』を「四書」と位置づけて儒教教育の核に据えた。主著『四書集注』は元代以降、中国・朝鮮・ベトナム・日本の科挙と学校教育の基本文献となり、前近代東アジアの知的秩序を600年にわたって規定した。日本では江戸幕府の官学としても採用された。
アイユーブ朝の創設者でイスラム世界の英雄。1187年にハッティンの戦いで十字軍を破り、エルサレムをキリスト教勢力から奪還した。第3回十字軍ではイングランド王リチャード1世(獅子心王)と激戦を繰り広げた。敵味方を問わない寛大さと騎士道精神で、西欧でも尊敬を集めた人物。
平清盛の嫡男で、平家一門の良識派として知られる人物。武勇に優れると同時に温厚な人柄で、清盛の専横を諫めたとされる。「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」という言葉で知られ、朝廷への忠義と父への孝行の間で苦悩した。源平合戦の開戦前に42歳で病没。重盛の死が平氏の抑制力を失わせ、滅亡への道を早めたとも評される。
中世最大のユダヤ教思想家・哲学者・医師。イスラーム支配下のコルドバ(現スペイン)に生まれ、ムワッヒド朝の迫害を逃れて北アフリカを転々とし、晩年はカイロでアイユーブ朝スルタン・サラディンの宮廷医として仕えた。主著『迷える者の導き』はアリストテレス哲学とユダヤ教の律法(ハラーハー)を融合させ、後のトマス・アクィナスらスコラ哲学者にも影響を与えた。ハラーハーを体系化した『ミシュネー・トーラー』とあわせ、現代に至るユダヤ教思想の礎を築いた巨人。
平清盛の三男で、兄・重盛の死後に平氏の棟梁を継いだ。清盛の死後、源氏の攻勢に対して平氏一門を率いるが、軍事的才覚に乏しく、1183年に木曾義仲の進撃を受けて安徳天皇とともに都落ち。その後も一ノ谷・屋島と敗退を重ね、壇ノ浦の戦い(1185年)で捕縛された。平家物語では凡庸な人物として描かれ、平氏滅亡の象徴的存在となっている。処刑時に取り乱す姿が伝えられている。
鎌倉幕府の初代征夷大将軍。河内源氏の棟梁・源義朝の三男として生まれ、1160年の平治の乱で父が敗死すると伊豆国に流された。配流先で北条時政の娘政子と結ばれ、1180年に以仁王の令旨を奉じて挙兵する。石橋山の戦いで一度は敗れたものの鎌倉を本拠に関東の武士団を結集し、1183年の寿永二年十月宣旨で東国支配権を朝廷に公認された。弟の範頼・義経らを西へ派遣し、1185年の壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼすと、同年には守護・地頭の設置を認めさせて全国的な武家支配の基礎を築いた。1189年に奥州藤原氏を滅ぼして武家の棟梁としての地位を確立し、1192年に征夷大将軍に任じられた。御家人との間に御恩と奉公による主従関係を結び、日本で最初の本格的な武家政権を打ち立てた。
源頼朝の異母弟で、義経とともに源平合戦の主力を担った武将。義経の華々しさに比べて堅実な用兵で知られ、西国方面の平氏追討に貢献した。壇ノ浦の戦いでは陸上からの攻撃を担当。平氏滅亡後は頼朝に忠勤を励んだが、謀反の嫌疑をかけられて伊豆に幽閉され、1193年に殺害されたとされる。義経と同様、頼朝の猜疑心の犠牲となった人物。
平清盛の四男で、平氏一門の中で最も武勇に優れた将とされる。壇ノ浦の戦い(1185年)では平氏の水軍を指揮して奮戦したが、潮流の変化と源氏の攻勢により敗北。「見るべき程の事は見つ」と言い残して鎧を二領着て入水自殺したと伝えられる。平家物語において最も壮絶な最期を遂げた武将として描かれている。
源頼朝の従兄弟で、信濃国(現・長野県)の木曾で挙兵した武将。1183年の倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を火牛の計で壊滅させ、平氏を都落ちに追い込んで上洛を果たした。「朝日将軍」の称号を得るが、京での軍勢の狼藉や後白河法皇との対立により孤立。最終的に頼朝が派遣した義経・範頼の軍に攻められ、1184年の粟津の戦いで討死した。

源義経の忠臣として知られる僧兵。五条大橋で義経と出会い家来となったという伝説が有名。義経に最後まで従い、衣川館での最期では主君を守るため大量の矢を受けながら仁王立ちのまま絶命したとされる「弁慶の立往生」の逸話で知られる。歴史的実在性については議論があるが、忠義の象徴として日本文化に深く根付いている人物。

源頼朝の異母弟で、源平合戦における最大の功労者。一ノ谷の戦い(1184年)での鵯越の逆落とし、屋島の戦い(1185年)、壇ノ浦の戦い(1185年)で平氏を次々に破り滅亡に追い込んだ天才的軍事指揮官。しかし兄・頼朝との関係が悪化し、腰越状を送るも許されず逃亡。奥州藤原氏のもとに身を寄せるが、藤原泰衡の裏切りにより衣川館で自害した。「判官贔屓」の語源となった悲劇の英雄として、日本史上最も人気のある武将の一人。
モンゴル帝国の創設者で、人類史上最大の陸上帝国を築いた征服者。遊牧民諸部族を統一し、中央アジア・ホラズム・中国北部を制圧した。駅伝制(ジャムチ)の整備や法典「ヤサ」の制定など統治制度も確立。モンゴルの急速な拡大はユーラシア大陸の東西交流を劇的に促進した。
平清盛の甥にあたる若武者で、一ノ谷の戦い(1184年)で熊谷直実に討たれた。わずか16歳の美しい公達の死は、平家物語の中でも最も哀切な場面の一つとして描かれている。敦盛の死に衝撃を受けた熊谷直実は後に出家したと伝えられる。織田信長が好んだ幸若舞『敦盛』の「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり」の題材となった人物。

モンゴル帝国第5代皇帝(ハーン)で、元朝の初代皇帝。チンギス・カンの孫にあたる。1260年にハーン位に就き、1271年には国号を中国風の「元」と定め、大都(現在の北京)を都とした。1279年に南宋を滅ぼして中国全土を統一し、遊牧民王朝として初めて中国全域を支配した。日本へは二度の遠征(元寇、1274年・1281年)を行ったがいずれも失敗。広大な領域を結ぶ駅伝制を整備し、チベット仏教を保護、ヴェネツィアの商人マルコ・ポーロを宮廷に迎えるなど、東西交流の活発化にも寄与した。

鎌倉幕府第8代執権。わずか18歳で執権に就任し、モンゴル帝国(元)のフビライ・ハンによる二度の日本侵攻(文永の役・弘安の役)に対処した。モンゴルの使者を斬首してまで抗戦の意志を示し、日本の独立を守り抜いた。禅宗を深く信仰し、円覚寺を建立したことでも知られる。
ヴェネツィア共和国出身の商人・探検家。父・叔父とともにシルクロードを経て元朝の宮廷に至り、フビライ・ハンに17年間仕えた。帰国後に口述した「東方見聞録」はヨーロッパにアジアへの強い関心を呼び起こし、後の大航海時代の原動力の一つとなった。日本を「黄金の国ジパング」として紹介したことでも有名。
中世セルビアの王(在位1331〜46年)、のち皇帝(在位1346〜55年)。ネマニッチ朝の君主で、1308年頃に生まれた。ビザンツ帝国の内乱に乗じてマケドニア・アルバニア・イピロス・テッサリアを征服し、1346年にスコピエで「セルビア人とギリシア人の皇帝(ツァーリ)」として戴冠、中世セルビアの最大版図を築いた。1349年には教会法・ビザンツ法の伝統と在地慣習を統合した「ドゥシャン法典」を制定し(1354年増補)、中世セルビア法制の集大成とされる。1355年に急死すると、後継者ステファン・ウロシュ5世のもとで帝国は急速に分裂し、オスマン帝国進出の背景となった。
ランサーン王国の建国者(在位1353〜1372年頃)。ルアンパバーン地方(ムアンスワー)の王族に生まれ、若くしてクメール帝国(アンコール朝)の宮廷に身を寄せた。クメール王の娘を妃に迎え、その軍事的支援を得てメコン川中流域のラオ族諸侯を次々と服属させ、1353年にランサーン王国(「百万頭の象」の意)を建国して都をシエントーン(現ルアンパバーン)に置いた。クメールから上座部仏教を受容し、のちにラオスの守護仏とされる仏像パバーン(プラバーン)がもたらされたと伝えられる。晩年は臣下によって退位させられ、ムアンナーン(現在のタイ・ナーン)に追放されて同地で没した。今日のラオスでは「建国の父」と位置づけられている。
明朝の建国者・初代皇帝(在位:1368年〜1398年)。本名は朱元璋。貧農の出身から紅巾の乱を経て頭角を現し、モンゴル支配の元朝を打倒して明を建国した。中央集権体制を強化し、宰相制度を廃止。海禁政策(海外渡航禁止)を実施した。中国史上、農民から皇帝に上り詰めた数少ない人物の一人。
14世紀セルビアの支配者(公、在位1373年頃-1389年)。セルビア帝国(ステファン・ドゥシャン帝国)崩壊後の分裂期に台頭し、モラヴァ・セルビアを中心にバルカン随一の実力者となった。南下するオスマン帝国の脅威に対抗するため諸侯連合を組織し、1389年のコソボの戦いでスルタン、ムラト1世の軍を迎え撃ったが、両軍指導者ともに戦死する激戦の末に落命した。死後セルビア正教会により聖人として列聖され、セルビアの民族的記憶において「コソボの誓い」を体現する象徴的存在として今日まで崇敬されている。

中国・元末明初の小説家。中国四大名著の一つ「三国志演義」の著者として最もよく知られる。史実をもとにしながらも大幅な脚色・創作を加え、諸葛亮を天才軍師として描くなど、文学としての面白さを追求した。三国志演義は東アジアの大衆文化に計り知れない影響を与え、日本でも「三国志」として広く親しまれている。
明朝第3代皇帝(在位:1402年〜1424年)。甥の建文帝を靖難の変で廃して即位。首都を南京から北京に遷都し、紫禁城を建設した。鄭和の大航海を命じ、東南アジア・インド・アフリカ東岸まで大船団を派遣した。永楽大典の編纂など文化事業にも力を入れ、明朝の最盛期を築いた。
ボヘミア(現在のチェコ)出身の宗教改革者・神学者。プラハ大学で学び、1409年には同大学の総長を務めた。イングランドのウィクリフの思想に影響を受け、プラハのベツレヘム礼拝堂でチェコ語による説教を行い、聖職売買や贖宥状(免罪符)の販売など教会の腐敗を厳しく批判した。教皇から破門された後、神聖ローマ皇帝ジギスムントの安全通行証を得てコンスタンツ公会議に出頭したが、異端として捕らえられ、自説の撤回を拒んで1415年7月6日に火刑に処された。その死はボヘミアの民衆の激しい反発を招いてフス戦争の引き金となり、約1世紀後のルターらによる宗教改革の先駆者と位置づけられている。
雲南出身のムスリム宦官で、明の永楽帝の命により1405年から1433年にかけて7度に及ぶ大艦隊遠征を指揮した。最大で乗員2万7千人・大型ジャンク船200隻超の「宝船」艦隊が東南アジア・インド・アラビア半島・東アフリカまで到達し、朝貢貿易と中華の威信を広域に及ぼした。コロンブスの大航海に80年以上先立つ大規模海洋進出として世界史に特筆される。
ティムール朝の君主であり、天文学者・数学者としても知られる。創始者ティムールの孫にあたり、サマルカンドを統治して学芸を保護した。1420年代に同地へ大規模な天文台を建設し、自ら観測に加わって恒星表『ジージ・スルターニー』を編纂、1000を超える恒星の位置を当時として高い精度で記録した。一年の長さの測定など天文学上の業績は名高い。一方で晩年は政治的対立に苦しみ、1449年に暗殺された。学者を厚遇した「学者王」として中央アジア科学史に名を残す。
朝鮮王朝第4代国王で、在位32年にわたり文化・科学・軍事の黄金期を築いた名君。1443年には民衆でも容易に読み書きできる表音文字「訓民正音(ハングル)」を創製し、庶民の識字と国家統治を飛躍的に前進させた。集賢殿を学術拠点とし、測雨器や仰釜日晷などの観測器具を開発させ、北方6鎮を設置して領土を画定。現在の大韓民国1万ウォン紙幣に肖像が描かれる国民的英雄である。
15世紀アルバニアの領主・軍人。本名はジェルジ・カストリオティ。北アルバニアの領主ジョン・カストリオティの子として1405年頃に生まれ、少年期にオスマン帝国へ送られて同帝国の軍人として仕え、「イスケンデル・ベイ」に由来するスカンデルベグの名で呼ばれた。1443年、ニシュの戦いののちオスマン軍を離れて故地に戻り、一族の拠点クルヤを回復して反乱を起こす。1444年にはレジャで諸侯の同盟をまとめ、以後20年以上にわたりムラト2世・メフメト2世が送った遠征軍を山岳戦で退け続けた。ヴェネツィアやナポリ王国、ローマ教皇庁と結んで支援を受け、教皇から「キリストの戦士(アトレータ・クリスティ)」と称された。1468年1月にレジャで病没し、1478年にはクルヤが陥落してアルバニアはオスマン帝国の支配下に入った。19世紀のアルバニア民族覚醒以降、民族的英雄として記憶されている。

フランスの国民的英雄。百年戦争中、神の啓示を受けたと称してフランス軍を率い、オルレアンの解放とシャルル7世の戴冠に貢献した。わずか17歳で軍を指揮したが、ブルゴーニュ派に捕らえられイングランドに引き渡され、異端の罪で火刑に処された。1920年にカトリック教会により列聖。
聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)第49代総長(在職1557〜1568年)。南フランスの貴族の家に生まれ、若くして騎士団に入り、1522年のロドス島攻防戦をはじめ地中海各地の戦いに従軍した。1557年に総長に選出され、1565年のマルタ大包囲戦では約4か月に及ぶオスマン帝国軍の攻撃に対して防衛を指揮し、シチリアからの援軍到着とともに撤退させた。包囲戦の翌1566年、グランド・ハーバーを見下ろす半島に新たな要塞都市の建設を始め、この都市は彼の名にちなんでヴァレッタと呼ばれ、後にマルタの首都となった。都市の完成を見ることなく1568年に没した。

室町時代後期から伊勢国桑名(現・三重県)で活躍した刀工、およびその名跡と作刀の総称。千子(せんご)派の祖とされ、初代以降「村正」の名は数代にわたり継承された。切れ味の鋭い実用刀として戦国武将に重んじられたが、徳川家康の周辺で不幸が相次いだという逸話から、江戸時代には『徳川家に祟る妖刀』とする伝説が広まった。これは後世に形づくられた俗説とされ、実際の村正は良質な刀工として広く流通していた。歌舞伎や講談を通じて『妖刀村正』の像が定着し、現在も創作作品にしばしば登場する。
16世紀フランドル(現在のベルギー)を代表する画家。1525年から1530年頃に生まれ、1551年にアントウェルペンの画家組合(聖ルカ組合)に親方として登録された。イタリア旅行を経て、晩年はブリュッセルで活動した。「雪中の狩人」「農民の婚宴」「バベルの塔」などの代表作で知られ、農民の生活や四季の風景を生き生きと描いたことから「農民ブリューゲル」とも呼ばれる。寓意画や宗教画には、当時のネーデルラントの社会や諺(ことわざ)に対する鋭い観察が反映されている。息子のピーテル・ブリューゲル(子)とヤン・ブリューゲル(父)も画家となり、一族は17世紀まで続く画家の家系として栄えた。
ポルトガル王ジョアン1世の三男。自らはほとんど大きな航海に出ることなく、ポルトガル南端サグレスに航海学校を設立し、天文学者・地図職人・航海士・造船家を集めて体系的な海洋探検を国家事業として組織した。彼の支援によりマデイラ諸島・アゾレス諸島の領有、アフリカ西岸の段階的な南下探検が実現し、大航海時代の礎が築かれた。また西アフリカとの黒人奴隷貿易を始めた人物でもあり、後の大西洋奴隷貿易の先駆けとなった側面も持つ。「自ら航海しなかった航海王子」というパラドックスで知られるが、その組織力と先見性は大航海時代を創出した最大の功績者の一人として評価される。
ポルトガルの航海士・探検家。1487年にジョアン2世の命を受けてアフリカ西岸の南下探検に出発し、1488年2月にアフリカ最南端の喜望峰に到達した。嵐の中でたどり着いたため当初「嵐の岬(カーボ・ダス・トルメンタス)」と命名したが、国王ジョアン2世がインド洋への希望の道が開けたことを称え「喜望峰(カーボ・ダ・ボア・エスペランサ)」と改名した。乗組員の反発で引き返さざるを得なかったものの、この到達が10年後のヴァスコ・ダ・ガマのインド航路開拓への決定的な一歩となった。1500年、カブラルのブラジル遠征に随伴した帰路、喜望峰沖で嵐に遭い、かつて自ら命名した「嵐の岬」の海で命を落とした。

ジェノヴァ出身の航海者。スペイン王室の支援を受け、1492年に大西洋を横断して「新大陸」に到達した。彼自身はアジアに到着したと信じていたが、実際にはカリブ海の島々だった。4度の航海でカリブ海域を探検し、ヨーロッパとアメリカ大陸の歴史的接触をもたらしたが、先住民への過酷な扱いでも知られる。
アステカ帝国第9代皇帝(在位1502〜1520年)。帝国の最大版図を実現した君主で、宮廷儀礼を極限まで洗練させ神に近い存在として崇められた。1519年にエルナン・コルテス率いるスペイン軍がテノチティトランに入城した際、外交的に受け入れた。コルテスはモクテスマを人質に取り実権を掌握しようとした。1520年の市民蜂起の中で死亡したが、スペイン人に殺されたとも自国民に石を投げられて死んだともされ諸説ある。「恐れから降伏した弱い君主」と見るか「状況を読んだ外交的対応」と見るか、歴史家の間で今も評価が分かれる人物である。

ポルトガルの航海士・探検家。1497年7月にリスボンを出発し、アフリカ南端の喜望峰を回り、東アフリカのモンバサ・マリンディを経由して1498年5月にインドのカリカット(現コジコード)に到達した。ヨーロッパとアジアを結ぶ初の海の直行航路を開拓したことで、それまでイスラム商人とヴェネツィアが独占していた香辛料貿易のルートを根本から変え、ポルトガルにインド洋交易の覇権をもたらした。2度目の航海(1502年)では艦隊を率いてインド洋で武力による交易独占を推し進め、地元商人への容赦ない暴力でも知られる。1524年、3度目の渡航中にゴアで病死した。
スペインのコンキスタドール(征服者)。1532年にわずか168人の兵士でインカ帝国に侵攻し、皇帝アタワルパを捕虜として莫大な身代金(黄金の間一杯の金と銀の間二杯分の銀)を得た後に処刑した。インカ側の内乱と天然痘の蔓延を利用し、人口1,200万ともいわれる巨大帝国を短期間で征服した。ペルーの征服によりスペインは南米の銀山(特にポトシ銀山)を手中にし、16〜17世紀の世界経済に流通した銀の大部分がここから産出された。1541年、征服地の利権をめぐる同士討ちでリマにて暗殺された。
ポルトガル出身の航海者で、スペイン王カルロス1世の命を受け、1519年に史上初の世界周航に出発した。南米大陸南端のマゼラン海峡を発見・通過し、太平洋を横断。フィリピンのマクタン島で現地の首長ラプラプとの戦闘で戦死したが、残った船員が1522年に世界周航を完遂した。
ドイツの神学者・宗教改革者。1517年に九十五ヶ条の論題を掲示し、ローマ教皇庁の贖宥状(免罪符)販売を批判。「聖書のみ」「信仰のみ」「万人祭司」を唱え、プロテスタント運動の出発点となった。聖書をドイツ語に翻訳し、一般大衆が直接聖書を読めるようにしたことは、宗教だけでなくドイツ語の発展にも大きく貢献した。
スペインのコンキスタドール(征服者)。1519年にわずか500人余りの兵士とともにメキシコに上陸し、アステカ帝国の皇帝モクテスマ2世と対面。天然痘の流行や現地の敵対勢力との同盟を巧みに利用し、1521年にアステカの都テノチティトランを陥落させて帝国を滅亡させた。人口数百万を誇ったアステカ文明は短期間で壊滅し、メキシコはヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)として植民地化された。征服の過程では大量虐殺・強制労働・天然痘による人口激減など先住民への甚大な被害をもたらした。晩年はスペインに帰国したが往年の栄光を失い、失意のうちに死去した。
スペインのコンキスタドール(征服者)。エステマドゥーラ地方バダホス出身。コルテスのメキシコ遠征に副官として参加し、テノチティトラン駐留中の1520年、祭礼中のアステカ貴族を襲った「大神殿の虐殺」を引き起こし、アステカ側の大蜂起(ラ・ノーチェ・トリステ)の引き金を作った。1523〜24年にはグアテマラへ遠征してキチェ王国・カクチケル王国などマヤ系諸王国を征服し、初代グアテマラ総督となった。エルサルバドル方面へも遠征し、中央アメリカにおけるスペイン支配の基礎を築いた。1541年、メキシコ西部で起きた先住民の反乱(ミシュトン戦争)の鎮圧中に落馬事故で負傷し、死去した。
オスマン帝国第10代スルタン(在位1520〜1566年)。「壮麗王」と称され、帝国を最大版図に拡大した。ヨーロッパではハンガリーを征服しウィーンを包囲、地中海ではロードス島やアルジェリアを制圧した。法典の整備から「立法者」とも呼ばれ、帝国の行政・法制度を体系化した。
アステカ帝国最後の皇帝(在位1520〜1521年)。名は「落下するワシ」を意味する。モクテスマ2世の死後に即位し、天然痘の猛威と周辺部族の離反の中でもスペイン軍への抵抗を指揮した。1521年8月13日、兵糧攻めで弱りきったテノチティトランが陥落し、湖上で逃亡中に捕らえられた。財宝の隠し場所を白状させるため足を焼く拷問にかけられた際、共に拷問を受けていた貴族が苦痛に耐えかねたところ「私はベッドの上にいるとでも思っているのか」と叱責したという逸話が残る。1525年にコルテスのホンジュラス遠征中に処刑された。メキシコでは征服への抵抗の英雄として現在も尊崇されており、メキシコシティに像が建てられている。

安芸国(現・広島県)の小規模な国人領主から身を起こし、一代で中国地方のほぼ全域を制した戦国大名。1555年の厳島の戦いで主家を簒奪した陶晴賢を奇襲で破り、続いて大内氏・尼子氏を滅ぼして中国十ヶ国の太守となった。子の隆元・吉川元春・小早川隆景を結束させた「三本の矢」の教訓(三子教訓状)で広く知られ、次男・三男をそれぞれ吉川氏・小早川氏に養子入りさせる「毛利両川」体制で勢力を固めた。武力より謀略と外交を重んじた知略の将として、戦国を代表する名将に数えられる。
スペイン(ナバラ王国)出身のイエズス会宣教師。イグナチオ・デ・ロヨラとともにイエズス会を創設した初期メンバーの一人。ポルトガルの支援のもとゴア(1542年)、マラッカ(1545年)、日本(1549年)へと東方伝道を展開した。1549年に鹿児島に上陸した日本では2年間布教活動を行い、キリスト教の日本伝来という歴史的役割を果たした。さらに中国本土への布教を目指してマカオ沖の上川島まで達したが、1552年に熱病で死去した。死後カトリック教会から列聖され、「東方の使徒」と称される。その死後も日本でのキリシタン信仰は広がり、戦国大名の中にも入信者が現れた。
フランス出身の神学者・宗教改革者。予定説を中心とする改革派神学(カルヴァン主義)を確立し、スイスのジュネーヴを拠点に厳格な神権政治を実践した。彼の思想はフランスのユグノー、スコットランドの長老派教会、イングランドの清教徒に大きな影響を与え、プロテスタントの主要な潮流の一つとなった。
相模国(現・神奈川県)を本拠とする後北条氏の第3代当主。河越夜戦で上杉氏・古河公方連合軍を撃破し、関東の覇者としての地位を確立した。税制改革や検地を進めた優れた行政手腕で知られ、武田信玄・上杉謙信の侵攻にも耐え抜いた。戦国時代を代表する名君の一人。

駿河国(現・静岡県)の戦国大名。駿河・遠江・三河を支配し「海道一の弓取り」と評された東海の雄。今川仮名目録追加を制定するなど優れた統治者でもあった。1560年、大軍を率いて上洛の途上、桶狭間の戦いで織田信長の奇襲を受けて討死。この敗北は戦国時代の転換点となった。

甲斐国(現・山梨県)の戦国大名。父・武田信虎を追放して家督を継ぎ、「風林火山」の旗印のもと強力な騎馬軍団を率いて信濃・駿河へと勢力を広げた。宿敵・上杉謙信との五度にわたる川中島の戦いは戦国史屈指の名勝負として知られる。1572年には西上の途上、三方ヶ原の戦いで徳川家康・織田の連合軍を破ったが、翌1573年、上洛を目前にして病没した。分国法「甲州法度之次第」の制定や治水事業(信玄堤)など内政にも優れ、戦国最強と評される軍を育てた名将として後世まで高く評価されている。
尾張国(現・愛知県)出身の武将。織田信長の重臣として北陸方面軍を統率し、一向一揆の鎮圧や上杉謙信との戦いで武功を挙げた。「鬼柴田」の異名を持つ猛将。信長没後の清洲会議で秀吉と対立し、賤ヶ岳の戦い(1583年)に敗北。居城の北ノ庄城で妻・お市の方とともに自害した。

和泉国堺(現・大阪府堺市)出身の茶人。わび茶を大成し、茶道の祖として日本文化史上最も重要な人物の一人。織田信長・豊臣秀吉に茶頭として仕え、政治にも大きな影響力を持った。しかし秀吉の怒りを買い、1591年に切腹を命じられた。その美意識は建築・庭園・陶芸など日本の美の根幹に深く浸透している。
スペイン帝国の黄金時代を体現した絶対君主。カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の子として生まれ、スペイン・ナポリ・ミラノ・ネーデルラント・フィリピンを継承し、さらに1580年にはポルトガルを併合して「太陽の沈まない帝国」の主となった。新大陸の銀山から莫大な富が流入し、マドリード郊外にエスコリアル宮殿を建設。熱心なカトリック信者としてプロテスタントを弾圧し、スペイン異端審問を推進した。1588年の無敵艦隊(アルマダ)のイングランド遠征失敗が帝国衰退の転機となった。

織田信長の重臣として活躍した武将。丹波国を平定するなど軍事的才能に優れ、教養人としても知られた。1582年、本能寺の変で主君・信長を討つが、山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れて落命。「三日天下」の故事で知られる。謀反の動機は諸説あり、日本史上最大のミステリーの一つ。

越後国(現・新潟県)の戦国大名。初名は長尾景虎で、後に関東管領・上杉氏の名跡を継いだ。「義」を重んじる武将として知られ、自らを毘沙門天の化身と称した。宿敵・武田信玄との五度にわたる川中島の戦いは戦国時代を代表する合戦として語り継がれる。1577年には手取川の戦いで織田信長の軍を破るなど高い軍事的才覚を示したが、その翌々年、関東・上洛をうかがう途上で急死した。塩に困る敵の信玄に塩を送ったとされる逸話(敵に塩を送る)は、私利より信義を尊んだ義将としての人物像を象徴している。
イングランド女王(在位1558〜1603年)。ヘンリー8世とアン・ブーリンの娘。「処女王(ヴァージン・クイーン)」と呼ばれ、結婚せず国家と結婚したと宣言した。1588年にスペイン無敵艦隊(アルマダ)を撃破し、イングランドの海上覇権を確立。シェイクスピアの時代とも重なり、エリザベス朝文化の黄金期を現出させた。

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。尾張国(現・愛知県)の織田氏に生まれ、1560年の桶狭間の戦いで駿河の今川義元を破って頭角を現した。足利義昭を奉じて上洛したのち対立し、1573年に義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼした。比叡山延暦寺の焼き討ちや一向一揆との戦いで宗教勢力を抑え、1575年の長篠の戦いでは鉄砲を組織的に用いて武田勝頼を破ったとされる。安土城を築き、楽市楽座による経済振興や関所の撤廃など革新的な政策を進めたが、天下統一を目前にした1582年、本能寺の変で家臣・明智光秀に討たれた。

室町幕府第15代(最後の)将軍。兄の義輝が暗殺された後、織田信長の支援を受けて京都に入り将軍に就任した。しかしやがて信長と対立し、各地の大名に信長包囲網の形成を呼びかけた。1573年に信長に京都を追放され、室町幕府は事実上滅亡した。本能寺の変の黒幕説の一つとして名前が挙がることもある。

織田信長の死後に天下統一を果たした武将。足軽から農民へと身分を上げたのち、信長の家臣として山崎の戦いでアケチ勢を破り権力を奪取。太閤検地・刀狩令など全国統治の基盤を整備し、秀次と豊臣家の未来を図った。文禄・慶長の役で朝鮮半島への大規模な軍事遠征を強行した。

尾張国(現・愛知県)出身の武将。織田信長の家臣として若くから槍働きで名を馳せ「槍の又左」と呼ばれた。賤ヶ岳の戦い後に豊臣秀吉に従い、加賀百万石の礎を築いた。秀吉の死後は五大老の筆頭格として豊臣政権を支えたが、利家の死によって家康との均衡が崩れ、関ケ原の戦いへと繋がった。
ムガル帝国第3代皇帝で「大帝」と称される。13歳で即位し、在位49年のあいだに北インド全域からデカン高原北部までを版図に収め、ムガル帝国を世界屈指の大帝国へと成長させた。ラージプート諸侯との婚姻同盟を進め、非ムスリムに課された人頭税ジズヤを廃止するなど宗教寛容政策を採用。独自の融合宗教「ディーネ・イラーヒー」を試みるなど、多宗教共存を模索したことでも知られる。

三河国(現・愛知県)出身の武将。徳川家康に仕え、伊賀忍者を統率したとされる。本能寺の変の直後、堺にいた家康を伊賀越えで三河まで無事に護衛した功績が特に有名。実際には忍者というよりも槍の名手として戦場で活躍した武将であり、「鬼半蔵」と呼ばれた。皇居の半蔵門はその名に由来する。

江戸幕府の初代将軍。三河国(現・愛知県)の小大名・松平氏に生まれ、幼少期は今川・織田両氏の人質として過ごした。桶狭間の戦い後に自立し、織田信長と同盟。豊臣秀吉の時代には臣従して関東へ移封され、江戸を本拠とした。秀吉の死後、1600年の関ヶ原の戦いで勝利して実権を握り、1603年に征夷大将軍となって江戸幕府を開いた。1615年の大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、武家諸法度などにより幕藩体制を整えた。死後は東照大権現として日光東照宮に祀られ、約260年続く江戸時代の礎を築いた。

美濃国(現・岐阜県)出身の武将・軍師。わずか十数名で稲葉山城を奪取した逸話で名を上げ、豊臣秀吉の軍師として活躍した。病弱ながらも優れた知略で「今孔明」と称えられ、黒田官兵衛と並んで秀吉の「二兵衛」と呼ばれた。播磨攻めの最中に陣中で病没し、35歳の若さでこの世を去った。
朝鮮王朝中期の武将で、文禄・慶長の役(壬辰倭乱・丁酉再乱)において日本水軍を撃退した救国の英雄。鉄甲板を備えた「亀甲船(コブクソン)」を実戦投入し、鳴梁海戦では僅か13隻で300隻超の日本艦隊を破る戦術的奇跡を成し遂げた。最後の露梁海戦で流れ弾を受けて戦死したが、「戦局を案じ、私の死を秘せ」と遺した言葉とともに、朝鮮半島で最も崇敬される軍人として語り継がれている。

播磨国(現・兵庫県)出身の武将・軍師。織田信長・豊臣秀吉に仕え、秀吉の天下統一を知略で支えた。中国大返しの献策、備中高松城の水攻めなど数々の策略で名を馳せた。あまりの才覚ゆえに秀吉からも警戒されたと伝わる。晩年は如水と号してキリシタンとなり、筑前(福岡)を治めた。
近江国(現・滋賀県)出身の武将。豊臣秀吉に仕え、文治派の中心人物として太閤検地や朝鮮出兵の兵站を統括した。秀吉没後、徳川家康の台頭に対抗して西軍を結成し、関ケ原の戦い(1600年)に挑んだが敗北。捕縛・処刑されたが、豊臣家への忠義を貫いた義将として評価される。

イタリアの天文学者・物理学者・数学者で、「近代科学の父」と称される。自作の望遠鏡で木星の4大衛星、月面のクレーター、金星の満ち欠けなどを発見し、コペルニクスの地動説を観測的に裏付けた。カトリック教会の異端審問にかけられ有罪判決を受けたが、「それでも地球は動く」と呟いたとされる。
真田昌幸の次男。関ケ原の戦いでは西軍に属し、敗戦後は九度山に蟄居。大坂冬の陣では真田丸を築いて徳川軍を翻弄し、夏の陣では家康本陣に肉薄する壮絶な突撃を敢行して討死した。「日本一の兵(つわもの)」と敵味方から称えられ、戦国最強の武将の一人として後世に語り継がれる。

出羽国・陸奥国(現・東北地方)の戦国大名。幼少期に天然痘で右目を失明し、「独眼竜」の異名を持つ。18歳で家督を継ぎ、苛烈な戦いで東北の覇権を握った。仙台藩の初代藩主として城下町を整備し、慶長遣欧使節をスペイン・ローマに派遣するなど国際的な視野も持ち合わせていた。
スウェーデン国王(在位1611〜1632年)。ヴァーサ朝グスタフ1世の孫にあたり、17歳で即位した。宰相アクセル・オクセンシェルナと協力して行政・軍制の改革を進め、機動力を重視した火力と歩兵・騎兵・砲兵の連携戦術によりスウェーデン軍を当時ヨーロッパ有数の軍隊に育て上げ、「近代戦術の父」とも評される。ロシアやポーランドとの戦争でバルト海沿岸に勢力を広げた後、1630年にプロテスタント側として三十年戦争に介入し、1631年のブライテンフェルトの戦いで皇帝軍に大勝してドイツ中部まで進撃した。1632年11月、リュッツェンの戦いで自ら騎兵を率いて突撃中に戦死した。娘のクリスティーナが王位を継いだ。
フランス国王(在位1643〜1715年)。72年間の在位はヨーロッパ史上最長。「朕は国家なり」の言葉に象徴される絶対王政を完成させた。ヴェルサイユ宮殿を建設し、壮麗な宮廷文化を築く一方、度重なる戦争で国庫を圧迫した。ナントの勅令を廃止しユグノーを弾圧したことでも知られる。

イングランドの物理学者・数学者・天文学者で、科学革命の中心人物。万有引力の法則、運動の三法則を確立し、微積分学を独自に開発した。主著「プリンキピア(自然哲学の数学的原理)」は近代物理学の基礎を築いた。光のスペクトル分解の実験や反射望遠鏡の発明でも知られる。
清朝第4代皇帝で、61年という中国史上最長の治世を誇った名君。三藩の乱を鎮圧し、台湾の鄭氏政権を併合、ロシアとネルチンスク条約(1689)を結んで北方境界を画定した。チベットを保護下に置くなど版図を最大化する一方、『康熙字典』『全唐詩』などの大編纂事業を推進。雍正・乾隆へと続く清の最盛期「康雍乾の盛世」を開き、前近代中国皇帝の理想像とされる。
ロシア帝国の初代皇帝(在位1682〜1725年)。西欧視察旅行で得た知見をもとに、ロシアの近代化・西欧化改革を断行。新首都サンクトペテルブルクを建設し、軍事・行政・教育を刷新した。大北方戦争でスウェーデンを破りバルト海への出口を確保し、ロシアをヨーロッパの大国に押し上げた。

江戸幕府第8代将軍(在職1716〜1745年)。紀伊徳川家の藩主から本家を継いで将軍となり、財政難に陥っていた幕政の立て直しを目指して享保の改革を断行した。倹約令による支出削減、年貢徴収を安定させる定免法、大名に米を上納させる上米の制などで財政を改善し、「米将軍」と呼ばれた。庶民の声を聞く目安箱の設置、町火消の整備、小石川養生所の開設、裁判基準を定めた公事方御定書の制定など、社会制度の整備にも努めた。実学を重んじ、キリスト教関係を除く漢訳洋書の輸入制限を緩和したことでも知られる。
アメリカ合衆国建国の父の一人。ボストンの職人の家に生まれ、フィラデルフィアで印刷業者・新聞発行人として成功し、『貧しいリチャードの暦』などの著述で知られた。公共図書館や消防組合、後のペンシルベニア大学につながる学院の設立など、市民生活の改善に関わる事業を数多く手がけた。科学者としては雷雲の電気を確かめる実験で稲妻が電気現象であることを示し、避雷針や遠近両用眼鏡、効率のよいストーブを考案した。政治面では1776年の独立宣言の起草委員を務め、独立戦争中は特使としてフランスに渡って1778年の米仏同盟を成立させ、1783年のパリ条約でも交渉に当たった。1787年の憲法制定会議にも最年長の代議員として参加し、独立宣言と合衆国憲法の双方に署名した数少ない人物である。晩年は奴隷制廃止協会の会長を務めた。

ハプスブルク帝国、いわゆるオーストリアの君主で実質的な「女帝」。神聖ローマ帝国皇帝カール6世の娘で、ハプスブルク=ロートリンゲン朝の同皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者。オーストリア系ハプスブルク家男系最後の君主であり、彼女の次代から、つまり子供たちの代からが正式に、夫の家名ロートリンゲン(ロレーヌ)との複合姓(二重姓)でハプスブルク=ロートリンゲン家となる。

江戸幕府の老中。商業を積極的に利用した重商主義的政策を推進し、株仲間の公認、蝦夷地(北海道)の開発計画、印旛沼の干拓事業などを行った。革新的な経済政策で幕府の財政改善を図ったが、賄賂政治との批判も強く、息子の暗殺をきっかけに失脚した。近年は再評価が進んでいる。
近代ネパール王国を建国したシャハ朝の初代国王(在位1743〜1775)。ヒマラヤ南麓の小王国ゴルカの王として即位し、数十年にわたる軍事遠征を指揮して、1768年にカトマンズ盆地のマッラ朝3王国を征服した。分立していた多数の小国を統合してネパール王国を樹立し、首都をカトマンズに定めた。外国勢力の介入を警戒する自立的な統治方針をとり、「ネパール建国の父」として今日も国民に記憶されている。
ロシア帝国の女帝(在位1762〜1796年)。プロイセン出身ながらクーデターで夫ピョートル3世から帝位を奪取。啓蒙専制君主として法典整備、教育改革、学術振興を行い、ロシアの領土を大幅に拡大した。ポーランド分割にも参画。ヴォルテールやディドロら啓蒙思想家と交流したことでも知られる。
ベネズエラのカラカス出身の革命家で、ラテンアメリカ独立運動の「先駆者(エル・プレクルソール)」と呼ばれる。スペイン軍士官としてアメリカ独立戦争に関わった後、ヨーロッパ各地を遍歴し、フランス革命では革命軍の将軍として従軍した(その名はパリの凱旋門に刻まれている)。早くからスペイン領アメリカ全体の解放を構想して各国に支援を求め、1806年には自ら組織した遠征隊でベネズエラ上陸を試みたが失敗した。1810年の革命後に帰国し、1811年の独立宣言で成立した第一共和国では危機に際して全権を委ねられたが、1812年、王党派の反攻の前に降伏協定に署名した。これに反発した若きシモン・ボリバルらに拘束されてスペイン側に引き渡され、1816年にスペインのカディス近郊の獄中で死去した。彼が掲げた黄・青・赤の三色旗は、現在のベネズエラ・コロンビア・エクアドル国旗の原型となった。
江戸幕府の老中。田沼意次の政治を批判して失脚させ、寛政の改革を主導した。倹約令・出版統制・学問の奨励(寛政異学の禁)など、厳格な政策を推進。しかし行き過ぎた統制は批判を招き、「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」と風刺された。
ウルグアイ独立運動の指導者で、「ウルグアイ建国の父」と呼ばれる国民的英雄。モンテビデオに生まれ、1811年にバンダ・オリエンタル(現在のウルグアイ)の独立運動を率いてラス・ピエドラスの戦いでスペイン王党派軍を破った。ブエノスアイレスの中央集権主義に反対して連邦主義を掲げ、ラプラタ地域の諸州を束ねる「連邦同盟」を主導し、「自由な人民の保護者」と称された。土地改革など先進的な政策も試みたが、1816年からのポルトガル軍の侵攻に敗れ、1820年にパラグアイへ亡命した。以後帰国することなく1850年に同地で死去したが、その連邦主義と自立の思想はウルグアイ国家の礎とされ、遺骨は現在モンテビデオの独立広場の霊廟に安置されている。
南アメリカ南部のスペインからの独立に大きく貢献した軍人・指導者。アルゼンチンの独立運動を支えたのち、アンデス山脈を越えてチリに進軍し、さらにペルーの独立にも関与した。シモン・ボリバルと並ぶ南米独立の英雄として知られ、アルゼンチンでは「解放者(エル・リベルタドール)」と称される国民的英雄である。
チリ独立の指導者で、独立後の初代国家元首(最高執政官、在任1817〜1823年)。スペイン系の父とチリ生まれの母のもとに生まれ、ヨーロッパ留学中に独立思想に触れた。ホセ・デ・サン・マルティンと協力してアンデス軍を組織し、1817年のチャカブコの戦い、1818年のマイプーの戦いで王党派を破ってチリの独立を達成した。改革を進めたが貴族層の反発を招き、1823年に退任してペルーに亡命、同地で没した。チリでは「祖国の父」と称される。
現在のベネズエラ出身の軍人・政治家で、シモン・ボリバルの最も信頼された副官として南米独立戦争を戦った。1822年5月のピチンチャの戦いでスペイン王党派軍を破ってキトを解放し、現在のエクアドルにあたる地域の独立を実現した。さらに1824年のアヤクーチョの戦いでスペイン副王軍を破り、南米大陸におけるスペイン支配の終焉を決定づけた。翌1825年に独立した上ペルーは彼の功績をたたえ、初代大統領にスクレを迎えるとともに、その首都はスクレと名付けられた。誠実で清廉な人柄から「アメリカ独立の最も完成された軍人」とも評される。1830年、コロンビアで暗殺され35歳で生涯を閉じた。ボリビアの憲法上の首都スクレ市に名を残している。
スロバキアの言語学者・政治家・ジャーナリストで、スロバキア民族再生運動の中心人物。1843年、中部スロバキア方言を基礎とする新しい文章語の規範を提唱し、現在のスロバキア語標準語の基礎を築いた。1845年にはスロバキア語による政治新聞「スロバキア国民新聞」を創刊し、1847〜48年にはハンガリー王国議会の議員として農奴制の廃止や民族の権利を訴えた。1848年革命に際してはスロバキア国民評議会の結成に加わり、ハンガリー革命政府に対する蜂起を指導した。革命後は当局の監視下に置かれ、1856年に狩猟中の事故がもとで死去した。

彦根藩第15代藩主、江戸幕府最後の大老。1858年に大老就任後、孝明天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約を独断調印し、将軍継嗣問題で紀州慶福(家茂)擁立を強行。反対派を大量処罰した「安政の大獄」で吉田松陰・橋本左内ら多数を処刑し、強権政治で幕府権威を一時的に立て直したが、反発を招いて1860年3月、登城途中の桜田門外で水戸・薩摩浪士に暗殺された(享年44)。茶人・歌人としても知られ、彦根の埋木舎で過ごした青年時代の文化的素養と政治家としての強硬さの落差で、現在も評価が分かれる人物。

近代看護教育の母。「光掲げる貴婦人」、「クリミアの天使」と称されており、病院建築でも非凡な才能を発揮した。クリミア戦争での負傷兵たちへの献身や統計に基づく医療衛生改革で著名。国際看護師の日(5月12日)は彼女の誕生日である。ロンドンの聖トーマス病院に付属してナイチンゲール看護学校を設立、これは世界初の宗教系でない看護学校であり、現在はキングス・カレッジ・ロンドンの一部となっている。ギリシア哲学についても造詣が深く、オックスフォード大学のプラトン学者、ベンジャミン・ジョウェットとも親しく交流した。

幕臣・政治家、幕末三舟の一人(山岡鉄舟・高橋泥舟と並ぶ)。蘭学・砲術を修め、ペリー来航時の海防意見書が阿部正弘に認められ幕府に登用された。1860年に咸臨丸艦長として日米修好通商条約批准書交換のため渡米(日本人初の太平洋横断)。神戸海軍操練所を開設し坂本龍馬ら脱藩浪士も受け入れた進歩的開明派。1868年3月、戊辰戦争で江戸に迫る新政府軍参謀・西郷隆盛と江戸薩摩藩邸で会談し、徳川慶喜助命と江戸無血開城を実現、江戸の市民100万を戦火から救った歴史的偉業として評価される。維新後は新政府海軍卿・枢密顧問官に就任。回想録『氷川清話』『海舟日記』を残し、1899年77歳で病没。皮肉と諧謔に富む江戸っ子気質の文人政治家として親しまれた。
パラグアイの第2代大統領(在任1862〜1870年)。初代大統領カルロス・アントニオ・ロペスの息子として生まれ、若くして軍と外交の要職を歴任し、父の死後に大統領職を継いだ。1864年に始まった三国同盟戦争(パラグアイ戦争)ではブラジル・アルゼンチン・ウルグアイの三国を相手に戦争を指導したが、劣勢の中でも降伏を拒み、1870年3月1日のセロ・コラーの戦いで戦死した。その評価は時代とともに変遷し、戦後は敗戦の責任者として批判される一方、20世紀に入ると祖国防衛の象徴として再評価が進み、現在のパラグアイでは国民的英雄のひとりと位置づけられている。

薩摩藩士、明治維新の立役者の一人。藩主島津斉彬の側近として頭角を現し、安政の大獄では月照と入水自殺を図ったが一人生還。沖永良部島流罪を経て復帰後、禁門の変・第二次長州征討・薩長同盟・王政復古・戊辰戦争で薩摩軍を率い倒幕を主導した。1868年の江戸開城交渉で勝海舟と会談し、江戸無血開城を実現。維新後は参議・近衛都督として軍制改革・廃藩置県に貢献したが、1873年の征韓論政変で下野し鹿児島に帰郷。1877年の西南戦争で旧薩摩士族を率いて挙兵、政府軍に敗れて城山で自決した(享年49)。「敬天愛人」を信条とし、明治期から戦前まで国民的英雄として神格化された。

薩摩藩士、明治維新の三傑の一人(西郷隆盛・木戸孝允と並ぶ)。島津久光の側近として公武合体運動を推進、後に倒幕に転じて薩長同盟成立、王政復古の大号令、戊辰戦争を主導した。維新後は参議・大蔵卿・内務卿として殖産興業・廃藩置県・地租改正・徴兵制・学制など近代国家制度の骨格を築いた中心人物。1873年の征韓論政変では西郷隆盛と決別して内治優先を貫き、1874年の台湾出兵、1877年の西南戦争鎮圧を指揮。冷徹な実務家として「東洋のビスマルク」と呼ばれたが、1878年5月14日、紀尾井坂で島田一郎ら不平士族6名に暗殺された(紀尾井坂の変、享年47)。

長州藩士、思想家、教育者。山鹿流兵学を修めた藩校明倫館の教授見習いから、佐久間象山に師事して西洋兵学に開眼。1854年にペリー再来航の旗艦ポーハタン号への密航を企てて失敗し投獄、後に萩で松下村塾を主宰した。塾生に高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤博文・山県有朋・山田顕義ら、明治維新の中核となる人物を輩出。「草莽崛起論」「一君万民論」を唱え、討幕思想の源流となった。1858年の老中暗殺計画(間部詮勝要撃策)が露見して安政の大獄で江戸送致、1859年に処刑された(享年29)。「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」の辞世が有名。

長州藩士、明治維新の三傑の一人(西郷隆盛・大久保利通と並ぶ)。元の名は桂小五郎。吉田松陰と松下村塾の同門ではないが交流があり、剣客(神道無念流免許皆伝)としても知られた。文久年間は江戸藩邸詰めで尊攘派の中心となり、池田屋事件では危うく難を逃れた。八月十八日の政変・禁門の変での長州壊滅後、藩政奪還の中心人物となり、1866年の薩長同盟では長州側代表として坂本龍馬の仲介で西郷隆盛・小松帯刀と密約を結んだ。維新後は参議として五箇条の御誓文起草、版籍奉還・廃藩置県を推進、岩倉使節団副使として欧米視察。漸進主義の立場から征韓論・台湾出兵に反対した。1877年に病没(享年43)。

新選組局長。武蔵国多摩郡上石原(現東京都調布市)の農民・宮川久次郎の三男に生まれ、天然理心流の剣道道場・試衛館を継承した。1863年、清河八郎の浪士組募集に応じて土方歳三・沖田総司・山南敬助・永倉新八・原田左之助・井上源三郎らと京都に上り、清河の倒幕策動に反発して京都残留、会津藩主・松平容保の京都守護職配下となり「壬生浪士組」を結成。同年8月の八月十八日の政変での働きで「新選組」の名を下賜され、翌1864年6月の池田屋事件で全国に名を轟かせた。禁門の変・第二次長州征討でも幕府方として活動、討幕派志士の取り締まり・暗殺を多数手がけた。鳥羽・伏見の戦いで敗北後、甲陽鎮撫隊として再起を図ったが下総流山で投降、新政府軍に板橋(現東京都板橋区)で斬首された(享年34)。

新選組副長。武蔵国多摩郡石田村(現東京都日野市)の豪農・土方義諄の四男に生まれ、近藤勇の試衛館で天然理心流を学び義兄弟の契りを結んだ。新選組では「鬼の副長」と呼ばれ、隊規・粛清・組織運営の中枢を担った。芹沢鴨暗殺、山南敬助切腹、池田屋事件突入隊長、禁門の変での活躍など、新選組の全盛期を組織面で支えた。1868年の鳥羽・伏見の戦い後、近藤勇とともに転戦、近藤処刑後は仙台で榎本武揚と合流、蝦夷地(北海道)に渡り蝦夷共和国(箱館政権)の陸軍奉行並を務めた。1869年6月20日(明治2年5月11日)、箱館戦争の最終局面で一本木関門(現函館市)にて新政府軍の銃弾を受けて戦死(享年34)。死の直前まで一兵卒として最前線に立ち続けた剣客武人として、現代でも絶大な人気を誇る。

陸奥会津藩第9代藩主、京都守護職。美濃高須藩主・松平義建の六男に生まれ、会津藩主・松平容敬の養嗣子となり1852年に襲封。1862年(文久2年)、文久の改革で新設された京都守護職に幕命で就任し、会津藩兵約1,000を率いて京都に上った。会津藩の家訓(藩祖保科正之の遺訓)「徳川宗家への絶対的忠義」を背景に、孝明天皇から特別の信任を受け(御宸翰下賜)、新選組を配下に組み入れて尊攘過激派を取り締まった。八月十八日の政変・池田屋事件・禁門の変で会津藩は薩摩と並ぶ公武合体派の中核を担ったが、これが結果として「会津=幕府の手先」として尊攘派の最大の標的となる。鳥羽・伏見の戦い後の戊辰戦争では、新政府から朝敵と指定され会津若松城(鶴ヶ城)が1か月の籠城戦の末に落城(会津戦争、1868年)、白虎隊の悲劇が生まれた。明治後は許されて日光東照宮宮司を務め、1893年に57歳で病没。会津藩士の苛烈な運命に対する責任を背負い続けた悲劇の藩主として現在も会津で敬愛されている。

土佐藩郷士、幕末の志士。北辰一刀流の剣客として江戸で千葉道場に学び、1862年に脱藩。勝海舟に弟子入りして神戸海軍操練所で航海術を学び、1865年に長崎で日本最初の株式会社的商社「亀山社中」(後の海援隊)を設立した。1866年の薩長同盟では中岡慎太郎とともに薩摩・長州を仲介し、敵対していた両藩を結びつけた。1867年6月、土佐藩参政・後藤象二郎に「船中八策」(公議政体論)を授け、これが大政奉還の青写真となった。同年11月15日、京都・近江屋で中岡慎太郎とともに見廻組(佐々木只三郎ら)に襲撃され暗殺された(享年31)。型破りな自由人としての生涯と早世により、明治期以降「最も人気のある幕末人物」となり、司馬遼太郎『竜馬がゆく』で国民的英雄像が確立した。

江戸幕府第15代将軍(在職1867-68)、最後の征夷大将軍。水戸藩主徳川斉昭の七男に生まれ、一橋家を相続。将軍継嗣問題では一橋派の中心として紀州慶福(家茂)と争い、安政の大獄で謹慎処分を受けた。1862年の文久の改革で復帰し将軍後見職、1864年から禁裏御守衛総督として京都で公武合体・幕政再建を主導。1866年の家茂死去を受けて将軍就任、フランス公使ロッシュの支援で陸軍式幕政改革を進めた。第二次長州征討の敗勢を受け、1867年11月の大政奉還で政権を朝廷に返上。鳥羽・伏見の戦い(1868年1月)で敗れた直後に大坂城を脱出して江戸に帰還、勝海舟を通じて新政府軍と交渉し、江戸無血開城・恭順を選択した。維新後は静岡で長期隠棲、1902年に公爵となり1913年に76歳で病没。最も長生きした徳川将軍。

長州藩士、奇兵隊創設者、明治維新の主導者の一人。萩の上士の家に生まれ、吉田松陰の松下村塾に学び、久坂玄瑞と並ぶ「松門の双璧」と称された。1862年に幕府使節として上海に渡航し、清国が欧米列強に半植民地化された惨状を目の当たりにして攘夷の非現実性を痛感。帰国後、藩主の許可を得て1863年に身分を問わず志願制で組織する「奇兵隊」を創設、武士階級独占の軍事を打破する画期的革新を行った。1864年の馬関戦争では藩使者として講和交渉に当たった。同年12月の功山寺挙兵では、第一次長州征討で恭順した藩政府を打倒、長州藩を倒幕路線に転換させた。第二次長州征討では小倉口で幕府軍を破り、薩長同盟による武器近代化と相まって幕府を実質的に崩壊させた。しかし結核が悪化し、大政奉還の半年前の1867年5月に下関で病没(享年27)。「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と評された。
1888年にロンドンのイーストエンドで少なくとも5人の女性を殺害した正体不明の連続殺人犯。犯行の残虐さと犯人の巧みな逃走、新聞社への挑発的な手紙から世界的に知られる。王室関係者、医師、理髪師など数百人の容疑者が挙げられてきたが、決定的な証拠は見つかっていない。近代犯罪捜査の原点とされる。
1960年代後半から1970年代にかけてカリフォルニア州北部で少なくとも5人を殺害した正体不明の連続殺人犯。新聞社に暗号文や挑発的な手紙を送りつけ、自らを「ゾディアック」と称した。暗号文は4通送られ、うち1通は2020年にようやく解読された。切り裂きジャックと並び、世界で最も有名な未解決連続殺人事件の犯人とされる。
1971年にノースウエスト航空機をハイジャックし、20万ドルの身代金を受け取った後にパラシュートで飛行中の機体から脱出して逃走した正体不明の人物。FBIは45年間にわたり捜査を続けたが犯人を特定できず、2016年に正式に捜査を終了した。アメリカ航空史上唯一の未解決ハイジャック事件の実行犯であり、民間伝承的な人気を集めている。
アメリカ合衆国初代大統領(在任1789〜1797年)。独立戦争で植民地軍総司令官として英国軍と戦い、独立を勝ち取った。大統領は2期で退任する前例を作り、共和制の模範を示した。「建国の父」として合衆国の基礎を築き、首都ワシントンD.C.は彼の名にちなむ。
フランス革命期の政治家。ジャコバン派の指導者として公安委員会を主導し、恐怖政治を推進した。「美徳なき恐怖は有害であり、恐怖なき美徳は無力である」という信念のもと、革命裁判所による大量処刑を実行。テルミドールのクーデターにより自身もギロチンで処刑された。

フランス帝国の初代皇帝(在位1804〜1814・1815年)。コルシカ島生まれの军人で、フランス革命後の混乱を収め権力を掌握した。ナポレオン法典の制定やヨーロッパ各地への遠征で知られるが、1815年のワーテルローの戦いで敗北し、セントヘレナ島に流刑となり没した。
南米独立運動の最重要指導者で、「解放者(エル・リベルタドール)」と称される。1783年にベネズエラのカラカスの富裕な家に生まれ、ヨーロッパ留学で啓蒙思想に触れた。ナポレオン戦争でスペイン本国が混乱するなか独立闘争に身を投じ、各地で転戦。1819年にアンデス山脈を越えてボヤカの戦いで王党派を破り、ヌエバ・グラナダ(現コロンビア)の独立を決定づけた。同年、現在のコロンビア・ベネズエラ・エクアドル・パナマを統合した大コロンビア(グラン・コロンビア)を樹立して大統領となり、その後もペルー解放やボリビア建国を導いた。ボリビアの国名は彼に由来する。スペイン領アメリカ全体の統一国家を構想したが、地域間の対立により大コロンビアは解体に向かい、1830年、失意のうちにコロンビアのサンタ・マルタ近郊で47歳で死去した。

アメリカ合衆国第16代大統領(在任1861〜1865年)。南北戦争を指導し連邦の統一を守った。1863年の「奴隷解放宣言」で約400万人の奴隷解放を宣言したが、北軍勝利直後の1865年4月に暗殺された。「人民の、人民による、人民のための政治」の言葉で知られる。

イギリスの博物学者。ビーグル号での5年間にわたる航海(1831〜1836年)で世界各地の生物を観察し、自然選択による進化論を構築。1859年出版の「種の起源」は生物学を革命的に変え、宗教的世界観に大きな衝撃を与えた。現代生物学の基礎となる業績を残した。

プロイセン王国首相・ドイツ帝国初代宰相。「鉄血宰相」の異名で知られ、三度の戦争(デンマーク戦争・普墺戦争・普仏戦争)を通じて1871年のドイツ統一を達成。外交においてはヨーロッパの勢力均衡を巧みに操り、同盟網を構築して平和を維持した。社会保険制度の導入など国内政策でも先駆的な業績を残す。
ドイツ出身の哲学者・経済学者・社会思想家。エンゲルスとの共著「共産党宣言」(1848年)と主著「資本論」で、資本主義経済の矛盾を分析し、階級闘争による社会変革を理論化した。マルクス主義は20世紀の世界政治に決定的な影響を与え、ロシア革命や中国革命の思想的基盤となった。

イギリス女王(在位1837〜1901年)で、後にインド女帝も兼ねた。18歳で即位し、63年余に及ぶ治世はイギリスが産業革命の成果を背景に世界的覇権を握った最盛期「ヴィクトリア朝」と呼ばれる。夫アルバート公とともに立憲君主としての君主像を確立し、議会政治が成熟する中で象徴的な役割を担った。大英帝国は世界各地へ拡大し、1877年にはインド皇帝の称号を得た。九人の子をヨーロッパ各国の王室に嫁がせ・縁づけたことから「ヨーロッパの祖母」とも称される。彼女の名は時代そのものの代名詞となっている。
ブラジル帝国第2代皇帝(在位1831〜1889年)。父ペドロ1世の退位により5歳で即位し、1840年から親政を開始した。約半世紀におよぶ治世では議会政治を運営しつつ、コーヒー経済の発展、鉄道・電信の導入、奴隷制の段階的廃止を進めた。科学と文化の愛好家としても知られ、国内外の学術活動を後援した。1889年の軍部によるクーデターで帝政が廃止されると退位して渡欧し、1891年パリで死去した。
スーダンの宗教・政治指導者。ナイル川中流のドンゴラ地方に生まれ、スーフィズムの修行を積んだのち、1881年に自らをイスラームの救世主「マフディー(導かれし者)」と宣言した。エジプト・オスマン帝国による支配と重税に苦しむ民衆の支持を集め、聖戦(ジハード)を掲げて反乱を主導。1885年に首都ハルツームを攻略し、独立したイスラーム神権国家を樹立した。しかし勝利の直後に病で急死し、その国家は1898年にイギリス軍によって滅ぼされた。
エチオピア帝国の皇帝(在位1889〜1913年)。エチオピア中部のショア王として力を蓄え、1889年に皇帝に即位すると、分立していた諸侯をまとめて帝国の領域を大きく広げた。新首都アディスアベバの建設を進めるとともに、鉄道・電信・近代学校の導入など近代化政策を推進した。イタリアが条約の解釈を利用してエチオピアの保護国化を図るとこれを拒否して開戦し、1896年のアドワの戦いで勝利して、エチオピアの独立を列強に認めさせた。ヨーロッパによる植民地分割の時代に独立を守った皇帝として、アフリカ近代史を代表する人物の一人に数えられる。
アメリカの発明家・実業家で、「メンロパークの魔術師」と呼ばれた。生涯で1093件の米国特許を取得し、実用的な白熱電球、蓄音機、映画を映すキネトスコープなど、近代生活を変えた多くの発明を世に送り出した。ニュージャージー州メンロパークに研究所を構え、多数の技術者を組織して系統的に発明を行う近代的な研究開発の手法を確立した点でも大きな足跡を残した。電力供給では直流方式を推進し、交流方式を推すウェスティングハウスやテスラと「電流戦争」を繰り広げた。後に電機大手ゼネラル・エレクトリック(GE)へとつながる事業も興した。
タイ(シャム)チャクリー王朝の第5代国王(在位1868〜1910年)。父ラーマ4世(モンクット)の跡を継いで15歳で即位し、当初は摂政のもとで政務を学んだ。親政開始後は、行政の中央集権化と省庁制の整備、近代的な軍隊・司法・教育・財政・鉄道や郵便などの諸制度を導入する大規模な近代化改革(チャクリー改革)を推進した。社会改革として賦役と奴隷制を段階的に廃止し、1905年に奴隷制を最終的に撤廃した。英仏という二大列強のはざまで領土の一部を割譲しつつも独立を維持し、東南アジアで唯一植民地化を免れた国家の礎を築いた。「タイ近代化の父」と称され、現在も国民から深く敬愛されている。
キューバ独立運動の指導者・詩人・思想家で、キューバの国民的英雄。1853年にハバナで生まれ、少年期から独立運動に関わって投獄・国外追放され、スペイン・メキシコ・グアテマラなどを経て長くニューヨークで亡命生活を送った。ジャーナリスト・文筆家として活動しながら独立運動の組織化を進め、1892年にキューバ革命党を結成。1895年の独立戦争開始とともにキューバへ上陸したが、同年5月19日にドス・リオスの戦いで戦死した。詩集『素朴な詩(Versos Sencillos)』の詩句は後に歌曲「グアンタナメラ」の歌詞として世界的に知られるようになった。ラテンアメリカ近代文学(モデルニスモ)の先駆者としても高く評価されている。
近代シオニズム運動の創始者。オーストリア=ハンガリー帝国のペスト(現ブダペスト)に生まれたユダヤ系ジャーナリスト・作家。1894年にパリで従軍記者として取材したドレフュス事件での反ユダヤ主義の爆発を目撃し、ヨーロッパでのユダヤ人同化の限界を痛感。1896年に『ユダヤ人国家』を出版して独立したユダヤ民族国家の建設を提唱し、翌1897年にスイス・バーゼルで第1回シオニスト会議を主催した。パレスチナへの入植運動は彼の死後も続き、1948年のイスラエル建国の思想的原点となった。
ノルウェーの探検家・科学者・外交官・人道支援活動家。1888年にグリーンランド内陸部の横断に初めて成功し、1893〜96年には特殊設計船フラム号で北極海の漂流横断探検を行い、当時の最北到達記録(北緯86度14分)を樹立した。海洋学の発展にも貢献する研究者であり、1905年のノルウェー独立に際しては外交面で重要な役割を果たした。第一次世界大戦後は国際連盟の初代難民高等弁務官として捕虜の送還や難民救済に尽力し、無国籍者に発給される身分証明書「ナンセン・パスポート」を考案。1922年にノーベル平和賞を受賞した。
ベンガル地方出身の詩人・思想家・作曲家で、1913年に『ギーターンジャリ(歌の捧げもの)』でアジア人初のノーベル文学賞を受賞した。ベンガル・ルネサンスを代表する文化人としてイギリス植民地下のインドで創作と教育改革を続け、シャンティニケタンに国際大学を創設。インド国歌『ジャナ・ガナ・マナ』とバングラデシュ国歌『我が黄金のベンガル』を同時に作詞作曲した、世界で唯一の存在でもある。
中華民国の建国者で「国父」と称される革命家・政治家。民族・民権・民生の三民主義を掲げて清朝打倒の革命運動を主導し、辛亥革命(1911)の結果、翌1912年に中華民国臨時大総統に就任した。袁世凱に権力を奪われた後も中国国民党を結成して北伐を構想し、「革命未だ成らず」と遺して北京で客死。国共両党が共通して建国の父と仰ぐ近現代中国の最重要人物の一人である。
フィンランドの軍人・政治家。帝政ロシアの軍人として長く仕えた後、フィンランド独立後は1918年の内戦で白衛軍を率いた。第二次世界大戦期には冬戦争と継続戦争でフィンランド軍の総司令官を務め、ソ連の大軍に対する粘り強い防衛を指揮した。1944年から1946年まで第6代大統領を務め、ソ連との休戦を実現して国家の独立維持に努めた。フィンランドの国民的英雄とされ、ヘルシンキを横断する主要道路マンネルヘイム通りに名を残す。
ポーランド出身の物理学者・化学者。女性初のノーベル賞受賞者であり、物理学賞(1903年)と化学賞(1911年)の2分野で受賞した唯一の人物。放射性元素ポロニウムとラジウムを発見し、「放射能」という用語を生み出した。長年の放射線被曝により再生不良性貧血で死去した。

インド独立運動の指導者。グジャラート生まれ、ロンドンで法律を学んだ後、南アフリカでインド人差別と闘ったことが活動の原点。「サティヤーグラハ(真理の把持)」の哲学に基づく非暴力・不服従運動を指導し、1920年の非協力運動・1930年の「塩の行進」(植民地税に抗議して海岸まで400kmを行進)・1942年の「インド撤退運動」を主導した。質素な生活と断食による抗議で民衆の心をつかみ「マハトマ(偉大なる魂)」と敬称された。独立達成の翌1948年1月30日、ヒンドゥー過激派に暗殺。非暴力思想はキング牧師・マンデラら後世に多大な影響を与えた。

イギリスの政治家で、第二次世界大戦中の首相(1940〜1945年、1951〜1955年)。ナチス・ドイツの脅威に対し断固たる抗戦を主導し、「我々は海岸で戦う」などの演説で国民を鼓舞した。連合国の勝利に多大な貢献を果たし、1953年にはノーベル文学賞を受賞。20世紀最大の政治指導者の一人とされる。
ソビエト連邦の最高指導者(在任1924〜1953年)。レーニンの死後に権力闘争を勝ち抜いて独裁体制を確立し、急速な工業化・農業集団化を推進した。大粛清では数百万人を処刑・強制収容所送りにした一方、第二次世界大戦ではナチス・ドイツの侵攻を跳ね返して連合国の勝利に貢献。冷戦期には東側陣営を主導した。

ドイツ生まれの理論物理学者。1905年の「奇跡の年」に特殊相対性理論、光量子仮説、ブラウン運動の理論を発表。1915年に一般相対性理論を完成させ、重力の本質を時空の曲率として記述した。光電効果の説明で1921年にノーベル物理学賞を受賞。質量とエネルギーの等価性 E=mc² は原子力の理論的基盤となった。
アメリカの陸軍元帥で、太平洋戦争では南西太平洋方面連合軍最高司令官として日本軍と戦った。1945年9月2日、東京湾の戦艦ミズーリ号上で日本の降伏文書調印を主宰。連合国軍最高司令官(GHQ/SCAP)として戦後日本の占領統治を指導し、日本国憲法の制定・農地改革・財閥解体など日本の民主化改革を主導した。
トルコ共和国の建国者にして初代大統領。第一次世界大戦後のガリポリ防衛戦で名を挙げ、オスマン帝国崩壊後の祖国解放戦争を率いてギリシア軍を撃退した。1923年に共和制を宣言し、カリフ制廃止・政教分離・文字改革(アラビア文字からラテン文字へ)・女性参政権導入など急進的な西欧化改革を断行。「トルコ人の父(アタテュルク)」の尊称を贈られ、現代中東随一の世俗主義モデルを築いた。
ヨルダン・ハシミテ王国の初代国王(在位1946〜1951年)。メッカの太守フサイン・イブン・アリーの次男として生まれ、預言者ムハンマドの一族とされるハーシム家に属する。第一次世界大戦中の1916年に父が起こしたオスマン帝国に対するアラブ反乱に加わった。戦後の1921年、イギリスの委任統治下でヨルダン川東岸に設けられたトランスヨルダン首長国の首長となり、アンマンを拠点に国家の基礎を築いた。1946年の独立にともない国王に即位し、1949年には国名をヨルダン・ハシミテ王国と改めた。1948年の第一次中東戦争ではアラブ軍団を率い、戦後もヨルダン川西岸地区を統治下に置き1950年に併合を宣言したが、この措置はアラブ諸国の多くから承認されなかった。1951年7月20日、エルサレムのアル・アクサー・モスクで礼拝中に暗殺された。孫のフセイン1世がのちに長く王位を継いだ。

アメリカ合衆国第32代大統領(在任1933〜1945年)。史上唯一4期当選した大統領。大恐慌に対してニューディール政策を実施し、社会保障制度や公共事業で経済再建を図った。第二次世界大戦では連合国を主導し、国際連合の設立を推進したが、終戦を見届けることなく在任中に死去した。

イタリアのファシスト独裁者で「ドゥーチェ(指導者)」の称号で知られる。1922年のローマ進軍でファシスト党政権を樹立し独裁体制を確立。ヒトラーと日独伊三国同盟を結び第二次世界大戦に参戦したが、1943年に失脚して連合軍に降伏。1945年4月、北イタリアへの逃亡中にパルチザンに捕えられ処刑された。

大日本帝国の陸軍大将で、第40代内閣総理大臣(在任1941〜1944年)。真珠湾攻撃による対米英宣戦布告を決断し太平洋戦争を指導した。「東条幕府」とも称された強権的な戦時体制を築いたが、サイパン島陥落を機に辞任。終戦後の極東軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯として有罪判決を受け、1948年に処刑された。

大日本帝国海軍の連合艦隊司令長官(元帥海軍大将)。アメリカ留学・駐在経験から国力差を熟知し、個人的には対米開戦に反対していたとされる。1941年12月の真珠湾攻撃を立案・指揮して太平洋戦争の端緒を開いた。「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ…」の名言でも知られ、1943年4月、ブーゲンビル島上空で米軍機に撃墜され戦死した。
イスラエル建国の父にして初代首相。ロシア帝国領プウォンスク(現ポーランド)にユダヤ人家庭に生まれ、20歳でオスマン支配下のパレスチナに移住。シオニズム労働運動の指導者として組織化を進め、1948年5月14日テルアビブ博物館でイスラエル独立宣言を読み上げた。第一次中東戦争を指揮して国家の存続を確保し、1948〜1954年および1955〜1963年の二度にわたり首相を務めた。ネゲヴ砂漠開拓と移民受け入れ、ヘブライ語の国語化、国防軍(IDF)創設を主導し、建国期イスラエルの骨格を形づくった。
中国国民党の指導者で、中華民国国民政府主席・総統(在任1928〜1975年)。孫文の後継者として北伐で中国統一を達成し、日中戦争では日本軍に対して長期抗戦を指導した。第二次世界大戦後の国共内戦で毛沢東率いる共産党に敗れ、1949年に台湾へ撤退。台湾では「反攻大陸」を掲げながら権威主義体制のもと経済発展を指導した。

オーストリア出身のドイツ独裁者で、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の指導者。1933年に首相に就任し、総統(フューラー)として絶対権力を掌握した。ユダヤ人・ロマ・障害者らへの組織的迫害(ホロコースト)を主導し600万人以上を虐殺。1939年のポーランド侵攻で第二次世界大戦を引き起こしたが、1945年のベルリン陥落直前に自殺した。
インド共和国初代首相で、独立運動期からガンディーの盟友として国民会議派を率いた政治家。1947年の独立時に首相に就任し、17年にわたり世俗国家の原則、計画経済、非同盟外交を推進した。1955年のバンドン会議を主導し、冷戦下で第三世界の象徴的指導者となる。娘のインディラ・ガンディーも後に首相を務め、「ネルー家」はインド政治の中核をなした。著書『インドの発見』は今も読み継がれる。
フランスの将軍・政治家で、フランス第五共和政の初代大統領(在任1959〜1969年)。1940年のフランス降伏後、ロンドンからBBC放送で「自由フランス」への結集を訴えた「6月18日の訴え」で知られる。戦後はアルジェリア独立問題を解決し、独自の核戦力保持・NATOの軍事機構からの脱退などフランスの自主外交路線(ド・ゴール主義)を確立した。
アメリカの陸軍元帥・第34代大統領(在任1953〜1961年)。第二次世界大戦では連合国遠征軍最高司令官として1944年のノルマンディー上陸作戦(Dデイ)を指揮しナチス・ドイツを打倒した。大統領在任中は朝鮮戦争を終結させ、核抑止力を基軸とした冷戦政策を推進。退任演説で「軍産複合体の危険性」を警告したことでも知られる。

ドイツ国防軍の元帥で「砂漠の狐(Wüstenfuchs)」の異名を持つ。フランス侵攻と北アフリカ戦線で卓越した機動戦術を発揮し、敵側の連合軍からも敬意を持って語られた。1944年のヒトラー暗殺計画(ヴァルキューレ作戦)への関与を疑われ、ナチス政権から家族を人質に毒を強要され自殺。国葬をもって処理された。

インドの法律家・政治家・社会改革者。不可触民(ダリット)のマハール・カースト出身でありながらコロンビア大学・ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで博士号を取得した。生涯を通じてカースト制度による差別撤廃に奔走し、独立インドの初代法務大臣として1950年施行のインド憲法を起草した。同憲法にカーストによる差別の全面禁止と被差別集団への留保制度(ポジティブ・アクション)を明記した。晩年は「カースト制度の根絶にはヒンドゥー教からの離脱が必要」と結論し、1956年に数十万人のダリットを率いて仏教に集団改宗した。現代インドでは「建国の父」の一人として広く敬われ、各地に銅像が建てられている。
スペインの軍人・独裁者。ガリシア出身の職業軍人として頭角を現し、1936年のスペイン内戦でナショナリスト(反共和国)軍を率いて蜂起した。ナチス・ドイツとファシスト・イタリアの軍事支援を受けて1939年に勝利し、「総統(カウディーリョ)」として1975年まで36年間にわたり独裁体制を維持した。第二次世界大戦ではドイツに協力的中立を保ち、戦後の国際孤立を経て冷戦の文脈で西側に接近。晩年は経済開発主義へ転換して経済成長を実現した。国民の記憶では弾圧と功罪が複雑に交差する人物として今日も議論の的となっている。
エチオピア帝国最後の皇帝(在位1930〜1974年)。本名タファリ・マコンネン。1916年に摂政となって国政の実権を握り、奴隷制の廃止や近代的な行政機構の整備を進め、1923年にはエチオピアの国際連盟加盟を実現した。1930年に即位して「ハイレ・セラシエ(三位一体の力)」を名乗り、1931年に同国初の憲法を制定した。1935年のイタリア侵攻で国外に亡命し、国際連盟総会で侵略を訴えたが支援は得られず、1941年にイギリス軍の協力を得て復位した。戦後は1963年にアディスアベバでアフリカ統一機構(OAU)の創設を主導し、アフリカ諸国の連帯を象徴する存在となった。一方で国内改革の遅れと飢饉への対応が批判を招き、1974年の革命で退位させられ、翌年に死去した。ジャマイカで生まれたラスタファリ運動では信仰の対象とされている。
クロアチア出身の革命家・政治家で、社会主義ユーゴスラビアの指導者。第二次世界大戦中はパルチザン部隊を率いて枢軸国の占領軍に対する抵抗運動を指導し、戦後はユーゴスラビア連邦の首相、のち大統領として国家を率いた。1948年にソ連のスターリンと対立してコミンフォルムから追放されると、労働者自主管理を掲げる独自の社会主義路線を進めた。1961年にはインドのネルー、エジプトのナセルらとともに非同盟運動の結成を主導し、冷戦下で東西いずれの陣営にも属さない第三勢力の中心人物となった。多民族国家ユーゴスラビアを強い指導力でまとめたが、1980年の死後、連邦は次第に解体へ向かった。
テンペラ画家。1948年の帝銀事件の容疑者として逮捕され、死刑判決を受けた。しかし物証の乏しさや自白の信憑性に疑問が呈され、冤罪を訴える支援運動が長年続いた。死刑は執行されないまま、獄中で95歳で病死。日本の冤罪問題を象徴する人物とされる。

中国共産党の創設メンバーの一人で、中華人民共和国の初代最高指導者(1949〜1976年)。湖南省の農家に生まれ、農民運動を基盤とする独自の革命路線を築いた。1934〜36年の長征を通じて党内の指導権を確立し、抗日戦争と国共内戦を経て1949年に中華人民共和国の建国を宣言した。建国後は社会主義建設を急いだが、大躍進政策(1958年〜)は大規模な飢饉を招き、文化大革命(1966〜76年)では政治的混乱と多数の犠牲を生んだとされる。中国現代史に決定的な影響を残した指導者であり、その評価は功罪両面から論じられている。
ソビエト連邦の元帥で、第二次世界大戦最大の名将の一人とされる。モスクワ防衛戦・スターリングラード攻防戦・クルスク戦車戦を指揮してナチス・ドイツの侵攻を撃退し、1945年5月にはベルリン攻略を完遂してドイツの無条件降伏を実現。勝利記念日のパレードで白馬に騎乗して赤の広場を行進する姿は「ソ連勝利の象徴」として歴史に刻まれた。

日本国有鉄道(国鉄)の初代総裁。1949年7月5日に出勤途中に失踪し、翌日常磐線の線路上で轢断遺体として発見された。自殺説と他殺説が対立し、GHQの占領政策や国鉄の大量人員整理との関連が指摘された。下山事件は日本の戦後史最大のミステリーのひとつとされる。

日本の第124代天皇(在位1926〜1989年)。昭和という激動の時代を通じて在位し、1945年8月15日の「玉音放送」で日本の降伏を国民に告げた。戦後はGHQの方針により「人間宣言」を発表し象徴天皇の地位に就いた。生物学(ヒドロ虫類の研究)にも造詣が深く、在位63年は歴代最長の天皇として20世紀で最も在位期間が長い君主の一人でもある。

中華人民共和国の政治家で、1970年代末から1980年代にかけて最高実力者として中国を主導した。四川省に生まれ、若くしてフランスへ留学して中国共産党に加わり、長征や抗日戦・国共内戦を経て建国に貢献した。文化大革命では二度失脚したが復権し、毛沢東の死後に実権を掌握。「改革開放」を掲げて 市場経済の要素を導入し、深圳などの経済特区を設けて外資を誘致、中国を急速な経済成長へ導いた。香港返還に向けた「一国二制度」構想でも知られる。一方で1989年の天安門事件では民主化運動の武力鎮圧を最終的に決定した。1992年の南巡講話で改革路線を確固たるものにした。
カトリック教会の修道女にして修道会「神の愛の宣教者会」の創立者。「マケドニア生まれのアルバニア人であり、カトリックの修道女であり、インドの市民であり、世界に属している」と自らを語った。コルカタ(カルカッタ)の貧民街で苦しむ人々や孤児、病人のための献身的な保護活動を行い、1979年にその功績によりノーベル平和賞を受賞した。死後、2016年に教皇フランシスコによって列聖され、「コルカタの聖テレサ」となった。
ビルマ(現ミャンマー)の独立運動を主導した政治家・軍人で、「建国の父」と称される。学生運動の指導者として頭角を現し、第二次世界大戦中は日本の支援を受けてビルマ独立義勇軍を組織したが、のちに反転して連合国側につき日本軍と戦った。戦後はイギリスとの交渉で独立を勝ち取り、1947年には各少数民族の参加を定めたパンロン協定をまとめて統一国家の礎を築いた。しかし独立を半年後に控えた1947年7月19日、政敵ウー・ソオの差し向けた刺客により閣僚らとともに暗殺された。32歳での死後も国民的英雄として敬愛され続けている。娘は民主化運動の指導者アウンサンスーチー。

アメリカ合衆国第35代大統領(在任1961〜1963年)。43歳で選出された当時最も若い大統領。キューバ危機では核戦争を瀬戸際で回避し、アポロ計画で月面着陸の目標を宣言した。公民権運動の推進にも取り組んだが、1963年11月22日にダラスで暗殺された。その死は今なお多くの謎に包まれている。

南アフリカ共和国の政治家で、反アパルトヘイト闘争の象徴的存在。27年間の獄中生活を経て1990年に釈放され、1993年にノーベル平和賞を受賞。1994年に同国初の全人種参加選挙で大統領に就任し、人種和解と民主化を推進した。「赦しの力」を体現した20世紀最大の指導者の一人。

アメリカ合衆国第41代大統領(1989年〜1993年)。CIA長官、副大統領を経て大統領に就任。冷戦終結とソ連崩壊、ベルリンの壁崩壊という歴史的転換期のリーダーとして、「新世界秩序」を提唱。1991年の湾岸戦争では国連安保理決議に基づく多国籍軍を組織し、イラクのクウェート侵攻を撃退した。冷戦後の国際秩序の枠組みを方向づけた大統領。

アメリカの女優志望の女性。1947年1月にロサンゼルスで遺体が発見され、「ブラック・ダリア事件」として全米を震撼させた。事件後にメディアが付けた「ブラック・ダリア」の名で広く知られる。事件はアメリカ犯罪史上最も有名な未解決殺人事件のひとつであり、多数の映画や小説の題材となっている。
アメリカ合衆国の急進的な黒人解放指導者。ネーション・オブ・イスラム(NOI)のスポークスマンとして、キング牧師の非暴力主義を批判し、黒人の自己防衛と分離主義を主張して絶大な支持を集めた。後にNOIを脱退し、メッカ巡礼(ハッジ)を通じて正統的なイスラム教(スンナ派)に改宗。「エル・ハッジ・マリク・エル・シャバーズ」と名を変え、人種を超えた普遍的な連帯と平和を説くようになったが、翌1965年に演説中に暗殺された。
コンゴ民主共和国の独立運動指導者で、初代首相(在任1960年6月〜9月)。ベルギー領コンゴのカサイ地方に生まれ、郵便局員などを経て1958年に部族横断的な政党コンゴ国民運動(MNC)を結成した。1960年6月30日の独立式典では、ベルギー国王ボードゥアン臨席の場で植民地支配の苦難を率直に語る演説を行い、国際的な注目を集めた。しかし独立直後の軍反乱とカタンガ州の分離独立で政権は動揺し、同年9月にカサブブ大統領と相互解任の政争に陥った末、モブツのクーデタで失脚・軟禁された。1960年12月に逮捕され、1961年1月17日、敵対するカタンガ側へ引き渡された直後に殺害された。殺害へのベルギーの関与について、ベルギー政府は2002年に道義的責任を認めて謝罪している。アフリカ統一と非同盟を訴えたその生涯は、脱植民地化運動の象徴として記憶される。

アメリカの公民権運動の指導者でバプテスト派牧師。ガンジーの非暴力主義に影響を受け、人種差別撤廃のための平和的抗議運動を展開。1963年のワシントン大行進での「I Have a Dream(私には夢がある)」演説は歴史に刻まれた。1964年にノーベル平和賞を受賞。1968年に暗殺された。
ソヴィエト連邦最後の指導者。1985年にソ連共産党書記長に就任し、ペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を推進。レーガン米大統領との首脳会談で冷戦の緊張緩和を進め、1989年のベルリンの壁崩壊、東欧革命を見守った。1990年にノーベル平和賞を受賞。しかし改革は制御を超え、1991年にソ連は崩壊。西側では冷戦を終わらせた英雄として評価される一方、ロシア国内ではソ連を解体させた人物として複雑な評価を受けている。
チベット仏教の最高指導者(活仏)。本名はテンジン・ギャツォ。1950年の中国人民解放軍によるチベット侵攻後、1959年のチベット動乱に伴いインドへ亡命し、ダラムサラにチベット亡命政府を樹立した。以後、半世紀以上にわたって非暴力によるチベットの高度な自治とチベット文化の保護を世界に訴え続けている。1989年には非暴力平和闘争の功績が認められノーベル平和賞を受賞した。宗教指導者としての枠を超え、世界的な精神的指導者として広く多大な影響力を持つ。

イラク共和国の第5代大統領(1979年〜2003年)。バアス党政権のもとで独裁体制を敷き、イラン・イラク戦争(1980年〜1988年)を戦った。1990年にクウェートに侵攻し湾岸戦争を引き起こす。2003年のイラク戦争でアメリカ主導の多国籍軍により政権を崩壊させられ、逃亡の末に拘束。2006年に人道に対する罪で死刑判決を受け処刑された。

アメリカ合衆国第43代大統領(2001年〜2009年)。父ブッシュの長男で、親子二代の大統領。2001年の同時多発テロ(9.11)を受けて「テロとの戦い」を宣言し、アフガニスタン戦争(2001年)とイラク戦争(2003年)を開始した。イラク戦争では大量破壊兵器の存在を根拠としたが発見されず、戦後の混乱長期化とともに国内外で批判を受けた。