近現代1921年 〜 1992年
アレクサンデル・ドゥプチェク
別名: ドゥプチェク・Alexander Dubček・アレクサンドル・ドゥプチェク
チェコスロバキアの政治家で、1968年の改革「プラハの春」を主導したチェコスロバキア共産党第一書記(在任1968年1月〜1969年4月)。1921年、スロバキア西部のウフロヴェツに生まれ、幼少期を両親とともにソ連(キルギス、のちゴーリキー)で過ごし、1938年に帰国した。第二次世界大戦中は1944年のスロバキア民族蜂起に加わり、負傷している。戦後は共産党の職業活動家として昇進し、モスクワの党高等学校に学んだのち、1963年にスロバキア共産党第一書記となった。1968年1月、経済停滞と改革要求の高まりのなかでアントニーン・ノヴォトニーに代わってチェコスロバキア共産党第一書記に選出され、4月の「行動綱領」で検閲の廃止や言論・集会の自由の拡大などを掲げ、「人間の顔をした社会主義」と呼ばれる路線を進めた。しかし同年8月20日深夜、ソ連を主力とするワルシャワ条約機構軍が侵攻し、ドゥプチェクらはモスクワへ連行されて改革の中止を受け入れさせられた。1969年4月に第一書記を解任され、駐トルコ大使に転じたのち1970年に党を除名され、以後はスロバキアの森林管理関係の職に就いて公的活動から退いた。1989年のビロード革命で政界に復帰し、同年12月から1992年まで連邦議会議長を務めた。チェコとスロバキアの分離には反対の立場をとったが、1992年9月に交通事故で重傷を負い、同年11月7日に死去した。1989年にはヨーロッパ議会からサハロフ賞を受けている。