近現代

プラハの春とワルシャワ条約機構軍の侵攻(チェコ事件)

🇨🇿チェコ

1968年1月、チェコスロバキア共産党第一書記にスロバキア出身のアレクサンデル・ドゥプチェクが就任し、「人間の顔をした社会主義」を掲げる自由化改革が始まった。4月に採択された「行動綱領」は、検閲の廃止、言論・集会の自由の拡大、経済の分権化、スロバキアの地位を高める連邦制への移行などを打ち出し、この一連の動きは「プラハの春」と呼ばれた。ソ連は改革が東欧諸国へ波及することを警戒し、8月20日深夜、ソ連軍を主力とするワルシャワ条約機構軍(ソ連・ポーランドハンガリーブルガリア)が国境を越えて侵攻し、翌21日までにプラハなど主要都市を制圧した。市民は道路標識を外すなど非武力の抵抗を行ったが軍事的抵抗は組織されず、ドゥプチェクら指導部はモスクワへ連行され、改革の中止を認めるモスクワ議定書に署名させられた。1969年1月には学生ヤン・パラフがプラハのヴァーツラフ広場で抗議の焼身自殺を遂げている。同年4月にドゥプチェクは解任され、後任のグスターフ・フサークのもとで改革派を追放する「正常化」政策が進められた。ソ連はこの介入を、社会主義陣営全体の利益が個別国家の主権に優先するとする制限主権論(ブレジネフ・ドクトリン)によって正当化し、西欧の共産党や国際世論から強い批判を受けた。

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