古代175年 〜 210年
周瑜(しゅうゆ)
別名: 周公瑾・しゅうゆ
後漢末から三国時代にかけて孫策・孫権に仕えた呉の武将・軍師。字は公瑾。廬江郡の名家に生まれ、若き孫策の盟友として江東平定を助けた。音楽に通じ容姿も優れていたことから「美周郎」と称された。208年の赤壁の戦いでは呉軍の総司令官として劉備軍と連合し、火攻めの計を用いて曹操の大軍を撃破、天下三分の流れを決定づけた。その後は天下二分を構想して益州への進出を企図したが、その実現を前に36歳の若さで病没した。智勇兼備の名将として、後世の物語にも繰り返し描かれている。小説『三国志演義』では諸葛亮の才にいつも出し抜かれ、「既に瑜を生みながら、何ぞ亮を生みしや」と嘆いて死ぬ嫉妬深い人物として描かれる。しかし正史『三国志』の周瑜は度量が広く、老将の程普が「公瑾と交わると、美酒を飲んで知らぬ間に酔うようだ」と評したと伝わる。