孫堅・孫策が築いた江東の基盤を受け継ぎ、孫権が長江の天険を活かして建国した。赤壁の戦いで曹操の南下を阻み、強大な水軍と孫家の結束で確固たる勢力を築いた。
呉(229年〜280年)は、長江の南側(江南地方)に強固な基盤を築いた孫権によって建国された国家です。
父の「江東の虎」孫堅、兄の「小覇王」孫策が切り開いた領地を、若くして継いだ孫権は、周瑜や陸遜をはじめとする優秀な家臣団に支えられ、大国・魏の侵攻を幾度も退けました。特に赤壁の戦い(208年)での勝利は、三国鼎立の形を決定づけた歴史的な転換点です。
強力な水軍を擁し、長江という天然の要害を活かして長期にわたり独立を維持しましたが、最後は西晋の圧倒的な軍事力の前に降伏し、三国の中で最後に滅亡しました。
孫堅が反董卓連合で活躍するも戦死。後を継いだ孫策が短期間で江東一帯を平定し、「小覇王」と呼ばれるも暗殺される。
孫策の死後、19歳で孫権が後を継ぐ。張昭や周瑜らの補佐を受け、勢力圏の維持・拡大に努める。
曹操の大軍が南下する中、降伏論を退けて開戦を決意。劉備軍との同盟の下、大都督・周瑜の指揮による火攻めで曹操軍を撃破。
劉備軍の関羽を討ち、悲願であった荊州を奪還。これに激怒した劉備の進攻(夷陵の戦い)を陸遜が火攻めで退ける。
魏・蜀に遅れて孫権が皇帝に即位し、正式に呉を建国(都:建業)。三国鼎立が完成する。
末期は後継者争い(二宮の変)や暴君・孫晧の悪政により国力が低下。西晋の侵攻を受けて降伏し、三国時代が完全に終結。
呉が北伐を目指す上で最大の障害となったのが「合肥」です。孫権は幾度も大軍で合肥を攻めましたが、魏の名将・張遼らの前にことごとく敗退しました。特に第二次合肥の戦いにおける「張遼の逍遥津での奇襲」は有名で、江南では泣く子も黙る「遼来々(張遼が来るぞ)」という言葉が生まれました。
呉が三国の中で最後まで生き残れた最大の理由は「長江」の存在と強力な水軍です。当時の北方軍は水上戦に不慣れであり、長江を渡って進軍することは極めて困難でした。
孫権の晩年に起こった凄惨な後継者争い。皇太子の孫和と魯王の孫覇による派閥争いは家臣団を二分し、陸遜などの重臣の死を招き、呉の国力を著しく削ぐ結果となりました。