中世
アフマド・イブン・イブラーヒーム
別名: アフマド・グラニュ・アフマド・グラン・アフマド・アル=ガーズィー・Ahmad ibn Ibrahim al-Ghazi
16世紀前半、紅海南方のアダル王国を率いたイマーム・軍事指導者。生年は1506年頃とされるが確かではない。アムハラ語で「左利き」を意味する「グラニュ(グラン)」の通称で知られ、アラビア語の称号「アル=ガーズィー(戦士)」でも呼ばれる。ハラールを拠点にアダルの軍権を掌握し、1529年のシンブラ・クレの戦いでエチオピア皇帝レブナ・デンゲルの軍を破ると、以後十数年にわたってエチオピア高原の大部分を支配下に置いた。オスマン帝国から供給されたマスケット銃や大砲を用いた戦い方は、火器の乏しかったエチオピア軍に対して大きな優位となった。妻バティ・デル・ワンバラも遠征に同行し、彼の死後もアダル側の抵抗を支えたと伝えられる。1541年にエチオピア側がポルトガルの銃兵隊の支援を得ると戦況は次第に均衡し、1543年2月のワイナ・ダガの戦いで皇帝ガラウデウォスの軍に敗れて戦死した。この戦争でエチオピアの教会や写本が多数失われた一方、アダル王国も国力を消耗し、以後この地域の勢力図は大きく塗り替えられた。エチオピア正教会側の記録では侵略者として記憶される一方、ソマリアなど周辺のイスラム系社会では英雄として語り継がれている。