中世1508年 〜 1582年
アルタン・ハーン(あるたんはーん)
別名: アルタン・ハン・俺答汗・Altan Khan
16世紀のモンゴル高原南部でトゥメト部を率いた有力な君主。モンゴルを一時的に再統合したダヤン・ハーンの孫にあたり、現在の内モンゴル西部を拠点に勢力を広げ、周辺のモンゴル諸部やオイラト、青海地方にまで影響力を及ぼした。明との関係では、交易の再開を求めてたびたび長城を越えて侵攻し、1550年には北京を包囲して郊外を荒らした(庚戌の変)。長い対立の末、1571年に明と和議が成立し、アルタン・ハーンは順義王に封じられて国境に馬市(互市)が開かれた。これにより明とモンゴルの大規模な戦闘は収まり、絹や茶と馬を交換する交易が制度化されて双方に安定をもたらした。内政では城郭都市フフホト(青い城の意)を築いて定住的な拠点とし、農耕や手工業に従事する漢人の移住も受け入れた。宗教面での功績は特に大きく、1578年に青海でチベット仏教ゲルク派の高僧ソナム・ギャツォと会見し、「ダライ・ラマ」の称号を贈った。これを機にゲルク派はモンゴル各地へ広まり、仏典のモンゴル語訳や寺院の建立が進んで、モンゴルの宗教・文化に長く影響を残した。1582年に没した。