1836年 〜 1893年
松平容保
別名: 松平肥後守・まつだいら かたもり
陸奥会津藩第9代藩主、京都守護職。美濃高須藩主・松平義建の六男に生まれ、会津藩主・松平容敬の養嗣子となり1852年に襲封。1862年(文久2年)、文久の改革で新設された京都守護職に幕命で就任し、会津藩兵約1,000を率いて京都に上った。会津藩の家訓(藩祖保科正之の遺訓)「徳川宗家への絶対的忠義」を背景に、孝明天皇から特別の信任を受け(御宸翰下賜)、新選組を配下に組み入れて尊攘過激派を取り締まった。八月十八日の政変・池田屋事件・禁門の変で会津藩は薩摩と並ぶ公武合体派の中核を担ったが、これが結果として「会津=幕府の手先」として尊攘派の最大の標的となる。鳥羽・伏見の戦い後の戊辰戦争では、新政府から朝敵と指定され会津若松城(鶴ヶ城)が1か月の籠城戦の末に落城(会津戦争、1868年)、白虎隊の悲劇が生まれた。明治後は許されて日光東照宮宮司を務め、1893年に57歳で病没。会津藩士の苛烈な運命に対する責任を背負い続けた悲劇の藩主として現在も会津で敬愛されている。