近世
禁門の変と第一次長州征討
🇯🇵日本
1864年8月20日(元治元年7月19日)、八月十八日の政変・池田屋事件で京都を追われた長州藩が、藩主父子の冤罪を訴えるため福原越後・国司信濃・益田右衛門介の三家老率いる兵約3,000を京都に進発させ、御所周辺で会津藩・桑名藩・薩摩藩の連合軍と交戦した内戦。長州勢は蛤御門・堺町御門・中立売御門で激戦の末に敗走、久坂玄瑞・真木和泉ら主導者が自害した。砲火で京都市中が焼亡(どんどん焼け)。朝廷は長州を「朝敵」とし、幕府は西国21藩約15万の兵を動員する第一次長州征討を発令。長州は四境戦争を回避するため三家老の切腹で恭順し、幕府軍は戦闘なしで撤兵した(同年12月)。しかし高杉晋作の功山寺挙兵で藩政が倒幕派に転じ、翌1866年の第二次長州征討での幕府敗北につながる。