中世
保元の乱
🇯🇵日本
1156年(保元元年)7月、皇位継承をめぐる崇徳上皇と後白河天皇の対立に、摂関家における藤原忠通と弟の頼長の確執が重なって起こった京都での武力衝突。長く院政を敷いた鳥羽法皇が7月2日に没すると、双方は武士を動員して対峙した。後白河天皇方には平清盛・源義朝・源頼政らが、崇徳上皇方には源為義とその子為朝、平忠正らが加わり、清盛と忠正は叔父と甥、義朝と為義は父子という関係で、武士の一門が敵味方に分かれて戦うことになった。7月11日未明、天皇方が崇徳上皇のこもる白河北殿を夜襲し、戦いは数時間で決した。敗れた崇徳上皇は讃岐国へ配流されてその地で没し、負傷した頼長も間もなく死去、源為義や平忠正は処刑された。都で貴人に対する死刑が科されるのは久しくなかったことで、当時の人々に強い衝撃を与えたと伝えられる。勝利した後白河天皇は荘園整理などを含む保元新制を発して権力の立て直しを図ったが、恩賞をめぐる不満は3年後の平治の乱を招き、その後の平氏政権へとつながった。慈円は『愚管抄』でこの乱を武者の世の始まりと評しており、貴族政治から武家政治への転換点とされる。