中世
大化の改新
🇯🇵日本
645年(皇極天皇4年)、中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足らが飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を討ち、翌日には父の蝦夷が自害して蘇我本宗家が滅んだ。この政変を乙巳の変という。皇極天皇は譲位して弟の孝徳天皇が即位し、中大兄皇子が皇太子、中臣鎌足が内臣、阿倍内麻呂が左大臣、蘇我倉山田石川麻呂が右大臣となり、日本で初めての元号「大化」が定められた。都は飛鳥から難波長柄豊碕宮へ移された。翌646年正月には改新の詔が出され、豪族の私有地・私有民を廃して土地と人民を国家のものとする公地公民制、京と国・郡・里の行政区画と交通制度の整備、戸籍・計帳の作成と班田収授法、旧来の労役に代わる統一的な税制(租・庸・調)という4か条の方針が示されたと『日本書紀』は伝える。ただし詔の文言には後の大宝令の用語による潤色があると考えられており、藤原宮跡などから出土した木簡によって、大宝令以前の地方組織は「郡」ではなく「評」と表記されていたことが確認された(郡評論争)。そのため改革がどこまで一挙に実行されたかについては研究上議論があるが、この政変を起点として、天智天皇期の庚午年籍、天武・持統天皇期の飛鳥浄御原令を経て、701年の大宝律令による律令国家の完成へと向かう流れが始まったとされる。