鎖国中の日本と世界 ― 250年間に何が起きていたか

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はじめに

1639年から1854年までの約215年間、日本鎖国と呼ばれる対外政策をとりました。ポルトガル船の来航を禁止し、オランダ中国を除く外国との交易をほぼ遮断したこの政策の間、日本国内では独自の文化が花開く一方、世界は劇的な変貌を遂げていました。

この記事では、鎖国中の日本と同時代の世界の出来事を並べて比較し、日本が「閉じていた」時代に世界で何が起きていたのかを概観します。

鎖国とは何だったのか

鎖国の経緯

「鎖国」は一夜にして成立したものではありません。段階的に対外関係が制限されていきました。

1612年にキリスト教の禁教令が出され、1624年にはスペイン船の来航が禁止されます。1635年には日本人の海外渡航と帰国が全面禁止となり、1637年〜1638年の島原の乱(キリシタン農民の大規模な反乱)を契機に、1639年にポルトガル船の来航が禁止されました。

ただし、完全な「鎖国」ではなかったことも重要です。長崎の出島ではオランダとの貿易が継続され、対馬藩を通じた朝鮮との外交、薩摩藩を通じた琉球との関係、松前藩を通じたアイヌとの交易は維持されていました。幕府はオランダ商館長に定期的に提出させたオランダ風説書を通じて、海外情勢の情報収集も行っていたのです。

なぜ鎖国を選んだのか

鎖国の最大の目的はキリスト教の排除幕藩体制の安定でした。キリスト教は幕府の支配秩序に対する脅威と見なされ、また各大名が独自に海外と交易することで力をつけることを防ぐ狙いもありました。

結果として鎖国は幕藩体制の安定に大きく寄与し、約260年にわたる泰平の世を支える基盤のひとつとなりました。

17世紀 ― 鎖国の始まりと世界の激動

日本(1630年代〜1700年頃)

鎖国の完成後、日本は平和の時代に入ります。3代将軍徳川家光から5代将軍綱吉の治世にかけて、参勤交代制度の確立、武断政治から文治政治への転換が進みました。上方(京都・大阪)を中心に元禄文化が花開き、井原西鶴の浮世草子、松尾芭蕉の俳諧、近松門左衛門の人形浄瑠璃などが生まれました。

同じ頃の世界

日本が太平を謳歌していたこの時期、ヨーロッパは激動の渦中にありました。

イングランドでは、1642年から始まった清教徒革命でチャールズ1世が処刑され(1649年)、一時的に共和制が成立。その後王政復古を経て、1688年の名誉革命で議会主権が確立されました。近代民主主義の出発点とされる出来事が、鎖国の日本と同時代に起きていたのです。

フランスでは、ルイ14世太陽王)がヴェルサイユ宮殿を建設し、絶対王政の全盛期を迎えていました。

オランダは17世紀に「黄金時代」を迎え、世界貿易の覇者として東インド会社を通じてアジア各地に進出。日本の出島はオランダの広大な貿易ネットワークの一端でした。レンブラント、フェルメールらの巨匠が活躍したのもこの時代です。

中国では、明朝が1644年に滅亡し、満州族の清朝が成立しました。初代から3代にわたる皇帝(順治帝・康熙帝・雍正帝)のもとで中国全土の支配が確立されていきます。

18世紀 ― 革命の世紀と日本の文化的成熟

日本(1700年頃〜1800年頃)

8代将軍徳川吉宗享保の改革(1716年〜1745年)では、財政再建と実学の奨励が行われました。吉宗は洋書(キリスト教関係を除く)の輸入制限を緩和し、蘭学(オランダを通じた西洋学問の研究)の萌芽をもたらしました。

18世紀後半には田沼意次重商主義的な政策、続く松平定信寛政の改革と、幕政の試行錯誤が続きます。

文化面では、化政文化(江戸中心の町人文化)が成熟期を迎えます。葛飾北斎や歌川広重の浮世絵、十返舎一九の滑稽本、曲亭馬琴の読本など、日本独自の文化が独自の発展を遂げました。

同じ頃の世界

18世紀は「革命の世紀」と呼ぶにふさわしい時代です。

1776年、アメリカ独立宣言が発表され、イギリスからの独立戦争を経てアメリカ合衆国が誕生しました。「すべての人は平等に創られた」という理念は、世界の民主主義運動に巨大な影響を与えます。

1789年にはフランス革命が勃発。バスティーユ牢獄の襲撃に始まり、国王ルイ16世とマリー・アントワネットの処刑、ジャコバン派の恐怖政治を経て、最終的にナポレオン・ボナパルトが台頭しました。

そしてイギリスでは、1760年代から産業革命が始まっていました。蒸気機関の改良、紡績機の発明、工場制度の普及により、人類の生産力は飛躍的に増大。農業社会から工業社会への大転換が、まさに鎖国中の日本の裏側で静かに、しかし確実に進行していたのです。

ロシアではエカチェリーナ2世がロシア帝国の版図を大きく拡大し、東方への進出を強めていました。この動きは後に日本の北方にも影響を及ぼすことになります。

19世紀前半 ― 世界が日本に迫る

日本(1800年頃〜1854年)

19世紀に入ると、鎖国体制には亀裂が生じ始めます。

1808年のフェートン号事件(イギリス軍艦が長崎に侵入)、1825年の異国船打払令、1837年のモリソン号事件(アメリカ商船を砲撃で追い返す)など、外国船との緊張が高まっていきました。

国内では天保の改革(1841年〜1843年)が行われますが成果は乏しく、飢饉や百姓一揆大塩平八郎の乱(1837年)など社会不安が増大します。

一方で、高野長英や渡辺崋山といった蘭学者たちは海外情勢を研究し、鎖国の限界を訴えましたが、蛮社の獄(1839年)で弾圧されました。

同じ頃の世界

ナポレオン戦争(1803年〜1815年)がヨーロッパを席巻し、ウィーン会議(1814年〜1815年)で戦後秩序が再編されました。

産業革命はイギリスから大陸ヨーロッパ、そしてアメリカへと波及し、蒸気船鉄道が交通革命をもたらしました。世界の距離が急速に縮まり始めたのです。

1840年〜1842年のアヘン戦争で、イギリスが清朝中国を武力で屈服させたニュースは、オランダ風説書を通じて幕府にも伝えられ、大きな衝撃を与えました。「眠れる大国」中国がイギリスに敗北したという事実は、日本の危機感を一気に高めます。

アメリカは西部開拓を進め、1846年〜1848年の米墨戦争でカリフォルニアを獲得。太平洋に面する大国となったアメリカにとって、太平洋航路の中継地として日本の港を開かせることは、次なる国家目標となりました。

鎖国の終わり

1853年、アメリカ海軍のマシュー・ペリー提督が4隻の黒船を率いて浦賀沖に来航し、開国を要求しました。翌1854年、幕府は日米和親条約を締結し、下田と箱館の2港を開港。215年間続いた鎖国は終わりを告げました。

その後、1858年の日米修好通商条約を皮切りに各国との不平等条約が結ばれ、安政の大獄、桜田門外の変、薩長同盟を経て、1868年の明治維新へと激流のように歴史が動いていきます。

鎖国は「遅れ」だったのか

鎖国を「日本の近代化を遅らせた愚策」と断じることは容易ですが、それは一面的な見方です。

鎖国がもたらしたものとして、260年にわたる国内平和、独自の文化的成熟、高い識字率(寺子屋の普及)、商業経済の発達、そして全国的な流通網の整備が挙げられます。これらは明治以降の急速な近代化を可能にした「土台」でもありました。

実際、開国後の日本がわずか数十年で列強の仲間入りを果たせた背景には、鎖国時代に蓄積された社会的・文化的資本があったと多くの歴史家が指摘しています。

一方で、産業革命と市民革命という世界史的大転換の時期に対外交流を制限したことの代償も大きく、不平等条約の解消には半世紀以上の歳月を要しました。

おわりに

鎖国中の日本を世界史の中に置いてみると、「閉じていた」時代が実はいかに多くのものと同時代であったかが浮かび上がります。名誉革命、アメリカ独立、フランス革命、産業革命、アヘン戦争。これらの出来事はすべて、北斎が波を描き、芭蕉が句を詠んでいた「その同じ時代」に起きていたのです。

日本史と世界史を別々に学ぶのではなく、同時代の出来事として並べて見ることで、歴史の新しい風景が見えてきます。

各国の個別のイベントについては、日本、イギリス、フランス、アメリカ、オランダ、中国などの歴史年表ページもあわせてご覧ください。

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