近世
長篠の戦い
🇯🇵日本
1575年(天正3年)、三河国の長篠城をめぐって織田信長・徳川家康の連合軍と武田勝頼の軍が設楽原で戦った合戦。武田軍が長篠城を包囲すると、城将の奥平信昌が籠城して持ちこたえ、援軍要請を受けた信長・家康は3万を超えるとされる大軍を率いて出陣した。連合軍は設楽原に馬防柵や堀を築いて陣地を構え、多数の鉄砲隊を配置してこれを守った。攻めかかった武田軍は柵と銃撃の前に大きな損害を出し、山県昌景・馬場信春・内藤昌豊ら宿老級の武将を多数失って敗走した。俗に「三千挺の鉄砲を三段に構えて交互に撃たせた」と語られてきたが、この三段撃ちの逸話は後世の編纂物に由来するもので、実際の運用については史料的な裏づけを欠くとされる。とはいえ鉄砲を陣地防御と組み合わせて大量に用いた点は画期的であり、以後の合戦や築城のあり方に影響を与えた。この敗戦で有力家臣を多く失った武田氏は勢力を後退させ、1582年に織田・徳川の侵攻を受けて滅亡した。