徳川15代将軍まとめ ― 各将軍は何をした人?江戸260年を一気に解説
はじめに
江戸幕府は1603年から1868年まで、約265年間にわたって日本を統治しました。その間、徳川家から15人の将軍が輩出されています。
しかし、教科書で詳しく扱われるのは初代家康、3代家光、5代綱吉、8代吉宗、15代慶喜あたりで、残りの将軍は名前すら知らないという人も多いのではないでしょうか。この記事では、15代すべての将軍を取り上げ、それぞれが何をした人なのかをわかりやすくまとめます。
初代 徳川家康(在職:1603年〜1605年)
江戸幕府の創設者。関ヶ原の戦い(1600年)で勝利し、1603年に征夷大将軍に就任して江戸に幕府を開きました。
将軍職にあったのはわずか2年で、1605年には息子の秀忠に将軍職を譲りますが、大御所として駿府(現在の静岡市)から実権を握り続けました。1614年〜1615年の大坂の陣で豊臣家を滅ぼし、徳川の天下を確定させたのは将軍を退いた後のことです。
家康が築いた統治の仕組み — 武家諸法度、朝廷統制、大名配置 — は、以後260年にわたる幕藩体制の基盤となりました。1616年、75歳で没。
2代 徳川秀忠(在職:1605年〜1623年)
家康の三男。父が存命中は大御所に実権を譲っていましたが、1616年に家康が死去すると本格的に政務を主導しました。
秀忠の業績で重要なのは武家諸法度の厳格な運用とキリスト教の禁止強化です。一国一城令を徹底し、大名統制の基礎を固めました。また、娘の和子を後水尾天皇に嫁がせ、朝廷との関係も安定させています。
地味な印象を持たれがちですが、父の遺産を制度として定着させた「守成の将軍」として再評価されています。
3代 徳川家光(在職:1623年〜1651年)
秀忠の長男。「生まれながらの将軍」を自称し、将軍の権威を絶対的なものに高めました。
家光の治世で確立された制度は多岐にわたります。参勤交代の制度化(1635年)は大名を定期的に江戸に出仕させることで統制を強化し、同時に街道や宿場町の発展をもたらしました。鎖国の完成もこの時代です。1635年に日本人の海外渡航を全面禁止し、1639年にはポルトガル船の来航を禁止。島原の乱(1637年〜1638年)の鎮圧後、キリスト教の徹底弾圧を行いました。
幕藩体制を完成させた将軍と言っていいでしょう。
4代 徳川家綱(在職:1651年〜1680年)
家光の長男。わずか11歳で将軍に就任しました。幼少のため、叔父の保科正之や老中の酒井忠勝ら有能な補佐役が政務を支えました。
家綱の治世の特徴は、家光までの武断政治(武力による統治)から文治政治(法と教養による統治)への転換です。殉死の禁止、浪人対策としての末期養子の緩和など、戦国の気風を改め、平和な社会の構築を進めました。
将軍としての個性は薄いものの、「戦いの時代から平和の時代へ」の転換点を担った重要な治世です。
5代 徳川綱吉(在職:1680年〜1709年)
家光の四男で、家綱の弟。15代の中でも最も毀誉褒貶の激しい将軍の一人です。
前半の治世は「天和の治」と呼ばれる善政で、学問を奨励し、湯島聖堂を建てて儒学を振興しました。しかし後半になると、有名な生類憐みの令(1685年〜)を発布。犬をはじめとする動物の殺傷を厳しく禁じたこの法令は、庶民に大きな負担を強い、「犬公方」と揶揄されました。
ただし近年の研究では、生類憐みの令は単なる犬の保護にとどまらず、捨て子の禁止や病人の保護なども含む社会福祉的な側面があったと再評価する見方もあります。
また、綱吉の時代には上方を中心に元禄文化が花開き、松尾芭蕉、井原西鶴、近松門左衛門らが活躍しました。
6代 徳川家宣(在職:1709年〜1712年)
綱吉の甥。将軍就任後すぐに生類憐みの令を廃止し、民衆から歓迎されました。側用人に新井白石を重用し、「正徳の治」と呼ばれる政治改革を推進。貨幣の質を回復させる改鋳や、朝鮮通信使の接待簡素化などを行いました。
有能な将軍でしたが、在職わずか3年で病没。51歳でした。
7代 徳川家継(在職:1713年〜1716年)
家宣の四男。わずか4歳で将軍に就任した江戸幕府最年少の将軍です。当然ながら実務は新井白石や間部詮房が担いました。
正徳の治の政策が引き続き行われましたが、家継自身は8歳で夭折。将軍として何かを成したというよりは、次の将軍・吉宗への「つなぎ」の存在でした。家継の死により、秀忠の直系の血筋は途絶えることになります。
8代 徳川吉宗(在職:1716年〜1745年)
紀州藩主から将軍に就任した、いわゆる「暴れん坊将軍」。実際には暴れるどころか、極めて理性的な改革者でした。
享保の改革(1716年〜1745年)を主導し、倹約令の発布、新田開発の奨励、目安箱の設置(庶民が将軍に直接意見を伝える仕組み)、小石川養生所の設立(貧民向け医療施設)など、多方面にわたる改革を行いました。
また、キリスト教に関係しない洋書の輸入制限を緩和し、蘭学(オランダを通じた西洋学問)の発展に道を開いたことも重要です。この決断は、後の日本の近代化につながる知的基盤を準備しました。
15代の中でも屈指の名君として評価されています。
9代 徳川家重(在職:1745年〜1760年)
吉宗の長男。言語障害があり、側近の大岡忠光だけが家重の言葉を理解できたと伝えられています。このため政務は大岡忠光に大きく依存しました。
治世自体は吉宗時代の路線を継続したものの、将軍個人の存在感は薄く、側用人への権力集中が批判の対象となりました。ただし近年の研究では、家重自身の判断力は必ずしも劣っていなかったとする見方もあります。
10代 徳川家治(在職:1760年〜1786年)
家重の長男。祖父・吉宗の薫陶を受けて育ち、聡明な人物でしたが、政務は側用人から老中に昇格した田沼意次に大きく委ねました。
田沼時代(1767年〜1786年)は、幕府の経済政策が大きく転換した時期です。商業を積極的に活用した重商主義的な政策が展開され、株仲間の公認、蝦夷地の開発計画、印旛沼の干拓事業などが推進されました。
しかし、賄賂政治の横行、天明の飢饉(1782年〜1788年)、浅間山の大噴火(1783年)が重なり社会不安が増大。家治の死後、田沼は失脚します。
11代 徳川家斉(在職:1787年〜1837年)
一橋家出身。在職50年は15代将軍の中で最長です。
治世の前半は、老中松平定信による寛政の改革(1787年〜1793年)が行われました。吉宗の享保の改革を手本に、倹約の奨励、出版統制(寛政異学の禁)、棄捐令(旗本・御家人の借金帳消し)などを実施しましたが、あまりに厳格すぎて「白河の清きに魚も住みかねて」と風刺されました。
定信退任後の家斉は一転して享楽的な生活を送り、大奥の華美、40人以上の子をもうけるなど「放漫」な治世に。ただしこの時期に化政文化が隆盛し、葛飾北斎、歌川広重、十返舎一九、曲亭馬琴らが活躍しました。
12代 徳川家慶(在職:1837年〜1853年)
家斉の次男。就任時すでに家斉の大御所政治が続いており、実権を握ったのは1841年に家斉が死去してからです。
老中水野忠邦による天保の改革(1841年〜1843年)を主導しましたが、物価統制の失敗、上知令(大名・旗本の領地替え)への猛反発で改革は挫折しました。
家慶の時代には、大塩平八郎の乱(1837年)、蛮社の獄(1839年)、アヘン戦争の衝撃(1840年〜1842年)など、幕藩体制の動揺を示す出来事が相次ぎます。そして1853年、ペリーの黒船が来航した直後に病没。享年60歳。
13代 徳川家定(在職:1853年〜1858年)
家慶の四男。病弱で政務遂行能力に不安があり、実質的な政策は老中阿部正弘、続いて井伊直弼が担いました。
この時代の最大の課題は開国問題です。1854年に日米和親条約が締結され、215年続いた鎖国が終わります。さらに1858年には日米修好通商条約が結ばれ、本格的な開国へ。この条約締結をめぐって、一橋慶喜を推す一橋派と紀州慶福(後の家茂)を推す南紀派が対立し、大老・井伊直弼が安政の大獄で反対派を弾圧しました。
家定自身の将軍としての影響力はきわめて限られていました。
14代 徳川家茂(在職:1858年〜1866年)
紀州藩主から13歳で将軍に就任。聡明で人望のある人物だったと伝えられています。
公武合体策の一環として、孝明天皇の妹・和宮を正室に迎えました(1862年)。朝廷との融和を図る動きでしたが、尊王攘夷運動の激化、薩英戦争(1863年)、下関戦争(1863年〜1864年)、第一次・第二次長州征討と、幕府の権威は急速に失墜していきます。
第二次長州征討の最中、大坂城にて21歳で病没。若すぎる死でした。
15代 徳川慶喜(在職:1866年〜1867年)
水戸藩出身、一橋家を経て最後の将軍に。英明な人物として知られ、「最後の将軍」にふさわしい決断力を持っていました。
就任時すでに幕府の権威は大きく揺らいでおり、慶喜はフランスの支援を受けた幕政改革、軍制の近代化を試みます。しかし薩長同盟の結成(1866年)により討幕の動きは加速。1867年10月、慶喜は大政奉還を行い、政権を朝廷に返上しました。
その後、鳥羽・伏見の戦い(1868年1月)で旧幕府軍が敗北すると、慶喜は江戸に逃れ、勝海舟と西郷隆盛の交渉による江戸城無血開城(1868年4月)を経て、徳川幕府は幕を閉じます。
慶喜は水戸で謹慎生活を送った後、静岡に移り、写真や自転車、狩猟などの趣味に没頭する穏やかな余生を過ごしました。1913年、77歳で死去。大正時代まで生きた最後の将軍でした。
15代を振り返って
15代の将軍を通して見ると、江戸時代の大きな流れが浮かび上がります。
前期(家康〜家光)は幕藩体制の構築と確立の時代。中期(家綱〜吉宗)は文治政治への転換と改革の試みの時代。後期(家重〜家慶)は体制の硬直化と動揺の時代。そして幕末(家定〜慶喜)は開国と崩壊の時代です。
15人の中には幼くして亡くなった将軍もいれば、50年も在職した将軍もいます。名君もいれば暗君もいます。しかしそれぞれの治世が、265年という途方もなく長い政権の一章を構成していたことを思うと、どの将軍の時代にも固有の意味があったと言えるでしょう。
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